• 日々のみ言葉 2021年1月12日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2021年1月12日(火)

    ◎聖書箇所【マタイの福音書9章9節】
    9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「私について来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

    ◎ショートメッセージ
    《この場面はカペナウムです。カペナウムには、ローマ軍の一大隊が駐屯していました。それゆえ、ローマの収税所が設けられていたのです。その取税人の頭がマタイ(レビ)であったのです。
     さて、私が過去に聞いたこの箇所からの多くのメッセージは、主イエスとマタイが初めて出会ったことを前提として語られていました。
     確かに、この時点においては、ナザレのイエスの名前はカペナウムはもとより、聖都エルサレムにまで広まっていました。その偉い先生が、収税所にすわっている自分を呼ばれたので、すべてを捨てて従ったと言うのです。しかし、そのようなことが果たして本当に有りうるのでしょうか。当時、取税人が職場を放棄すれば、二度とその職に戻ることは出来なかったのです。

     ペテロと弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネの場合はどうでしたか。
     マタイの福音書には、
    『イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。
    「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
     彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。(マタイの福音書4:18~4:22)』と書かれています。

     ペテロとアンデレは、初対面ではありません。もうすでに弟子でした。またゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネは、母マリヤの妹サロメの子であって、主イエスの実の従兄弟にあたります。しかも彼らは、物心付く以前から、従兄弟のイエスを良く知っているのです。それだからこそ、義理の叔父であるゼベダイは、ふたりの息子が主イエスの後を追うことを許したわけです。

     確かにこの時、主イエスとマタイとの、人格と人格との触れあいの出会いは、初めてであったかも知れません。しかしマタイの方では初めてではないと考えられるのです。 その答えが「山上の垂訓」です。なぜマタイの福音書だけに、あの素晴らしい「山上の垂訓」が、ほぼ全内容にわたって書き記されているのでしょうか。偶然でしょうか。
     いいえ。あの群衆の中にマタイがいたのです。そして、主イエスの教えを何度も聞いて、羊皮紙に書き写したのです。それゆえ、詳細にわたって残されているのです。

     あの教えを何度も聞き、書き記すことによって、実はもうマタイの心は主イエスに捕らえられていたのです。だからこそ、すべてを捨てて従ったのです。
     私は、この時、主イエスは、彼の名前を呼ばれたと信じています。明日も同じ箇所からです。》

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