• 2021年2月21日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【使徒の働き8章9節~17節】
    8:9 ところで、以前からその町にはシモンという名の人がいた。彼は魔術を行ってサマリアの人々を驚かせ、自分は偉大な者だと話していた。
    8:10 小さい者から大きい者まで、すべての人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、『大能』と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。
    8:11 人々が彼に関心を抱いていたのは、長い間その魔術に驚かされていたからであった。
    8:12 しかし人々は、ピリポが神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えたことを信じて、男も女もバプテスマを受けた。
    8:13 シモン自身も信じてバプテスマを受けると、いつもピリポにつき従って、しるしと大いなる奇跡が行われるのを見ては驚いていた。
    8:14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところに遣わした。
    8:15 二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。
    8:16 彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。
    8:17 そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

    ◎メッセージ【魔術師シモン】
    《かつて、エルサレム教会における毎日の配給を担当したディアスポラの七人の執事の一人ピリポは、サウロによる迫害を逃れ、伝道者となって、サマリアの町に遣わされて行きました。聖霊が彼をサマリアへ導いたとも考えられます。そこでピリポは、聖霊によって多くの癒やしと悪霊追い出しを行ない、町の人々は喜びに満たされたと言うのです。
     ピリポの名声は町の隅々まで広がって行ったのです。ところで、かつては北王国イスラエルの首都サマリアの町には、以前から「シモン」と言う魔術師が存在していました。しかも彼の活躍はかなり長い間にわたって行なわれて来たのです。ルカによれば、
    「彼は魔術を行ってサマリアの人々を驚かせ、自分は偉大な者だと話していた。小さい者から大きい者まで、すべての人々が彼に関心を抱き、「この人こそ、『大能』と呼ばれる、神の力だ」と言っていた。人々が彼に関心を抱いていたのは、長い間その魔術に驚かされていたからであった」と報告しています。
     具体的にはどのような魔術であったのかは分かりかねますが、それなりの不思議やいやしや悪霊からの解放などを行なっていたのではないかと考えられます。
     モーセがパロの前に立った時、パロへのしるしとして奇跡を行なったことがありました。最初のしるしの奇跡は、羊飼いのつえを蛇に変えることでした。驚くことに、パロの呪法師も同じことをやってのけたのです。次のしるしは、水を血に変えることでした。三つ目は、ナイル川からカエルを這い上がらせることでした。この時に呪法師はやってのけたのです。 ここから、悪魔も同じようにある程度の奇術や魔術が出来ることが分かります。しかし偽物であることは言うまでもありません。
     さて、ピリポは神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝えました。サマリアの町の人々は信じて、男も女もバプテスマを受けたのです。もちろんバプテスマを授けたのはピリポです。そして何と、驚くべきことに、魔術師シモンも信じてバプテスマを受けたと言うのです。そして迷惑なことに、いつもピリポにつき従って、しるしと大いなる奇跡が行われるのを見ては驚いていた、と言うわけです。この知らせがエルサレム教会にもたらされました。 教会は迫害の真っ只中にあったのですが、二人の使徒ペテロとヨハネをサマリアに送ったのです。なぜこの二人が遣わされたのでしょうか。この頃から主の兄弟ヤコブが最初の牧師として用いられていたようです。そしてシモン・ペテロとヨハネが、柱として用いられいぇいたからです。
     さて、ルカはここに不思議な事を記述しています。それは、ピリポは主イエスの名によるバプテスマを授けたのですが、聖霊はまだ彼らに降ってはおられなかったと言うことです。 これはどのような事なのでしょうか。ピリポは聖霊を知らないのでしょうか。そんなことはあり得ません。なぜなら七人の執事たちは、信仰と聖霊に満ちた人々であったからです。 サマリアの町の人々も、そして魔術師シモンも、聖霊によって、「イエスは主である」と信仰告白をしたと思われます。パウロは言いますように、『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。』とは真実なのです。
     しかし、それにも関わらず聖霊はまだ彼らには降ってはおられなかったのです。ここから二つのメッセージがあります。それは、救いのバプテスマの他に聖霊のバプテスマがあると言うことです。つまり二段階あるのです。また、聖霊は力や能力ではありません。創造主なる神様の第三位格のお方であられ、人格を持っておられる神様なのです。それでは、なぜピリポが洗礼を授けた時には、サマリアの町の人々には聖霊が降っては下さらなかったのでしょうか。それは、「教会の秩序」に関係があります。パウロはこう述べています。
    『神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えて下さいました。』と。
     主イエスは、そして聖霊なるお方は、秩序を求めておられ、また神様が定められた秩序に従われるのです。それゆえ、初代エルサレム教会から遣われた二人の使徒をあえて通して、聖霊なる神様は、サマリアの町の人々に降って来て下さったのです。》

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