◇◆◇日々のみ言葉
2021年9月3日(金)
◎聖書箇所【マタイの福音書19章1節~2節】
19:1 イエスはこの話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。
19:2 すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをおいやしになった。
◎ショートメッセージ
《今日からマタイの福音書の学びも、19章に入ります。
主イエスは、十二使徒たちに「一万タラントの借りのあるしもべ」のたとえから、人を赦すことについて、また教会の戒規について教えられました。
その日は、おそらくシモン・ペテロの家に宿泊されたと思われます。さて次の日のことです。ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に向かわれました。
この場所は、ペレヤ地方のことです。ヨルダン川東の、北はガリラヤ湖から南は死海の近くにまでおよぶ地域を指し、ユダヤと共に国主ヘロデ・アンティパスの支配下にありました。
すると、大勢の群衆がついて来たとなっていますが、カペナウムからついて来たのではありません。ペレヤ地方に入られた時に、そこの人々が群衆になって、主イエスを見つけてついて来たと言うわけです。
すでに、主イエスの公生涯は後期に入っていました。この頃の主イエスの働きは、人々のいやしではなく、十二使徒たちの弟子訓練が中心であったことは間違いありません。
日々が過ぎ行くにつれ、刻一刻と十字架の足音が近づいて来ていたからです。しかし、ご自身を求め、またついて来た群衆に対して、主は哀れみと恵みから、彼らの中の病の者、不具合のある者、また悪霊に憑かれた者を癒されたのです。
主イエスのお心は、癒されることにあります。シモン・ペテロは、その書簡において、明言しています。
『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(第Ⅰペテロの手紙2:24)』と。
最初は、この働きは紛れもなく主イエスだけによる御わざでありました。しかし、ある時、十二使徒たちにもその権限が与えられました。またさらに、六十人の別の弟子たちにもその権威が委譲されたのです。
それなのに、また主イエスだけの御わざになっている事とはどういうことなのでしょうか。
それは、ピリポ・カイザリヤにおいて、ヘルモン山から主イエスと、ペテロとヤコブとヨハネが下って来た時、他の弟子たちに癒すことができなかった、てんかんの霊に取り憑かれた一人息子の件が関わっているのかも知れません。
『イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコの福音書9:28~9:29)』と書かれています。
この後、弟子たちは尻込みしたとも考えられるのです。》