• 日々のみ言葉 2015年6月24日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年6月24日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書1章9節】

    1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

    ◎ショートメッセージ

    《なぜ主イエスはバプテスマのヨハネから、「悔い改めのバプテスマ」を受けられたのであろうか。主イエスは、罪を犯されなかった、ただ唯一の人であられた。主は、まさしく律法すなわちモーセによって与えられた律法をすべて守られたのである。律法を成就されたのだ。その汚れ無きお方が、ヨハネからバプテスマを受けられたのである。マタイは、平行記事として、このように書き記している。
    『イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。』
     ヨハネが、ここで言っているバプテスマは、「聖霊のバプテスマ」のことである。「そのお方は、聖霊のバプテスマをお与えになられます。」と、ヨハネ自身が預言した通りである。
     主イエスは、私たち人類の身代わりとして、「悔い改めのバプテスマ」をヨハネから受けられた。そして、この偉大なる行為は、「十字架の御わざ」へと続いて行く。主は、まことの神であられたが、また同時にまことの人であられた。母マリヤを通して、お生まれになってから、「メシヤ」としておおやけの生涯を始める前の30年間、主は何一つ罪をおかされなかった。しかしそれは、決して容易いこととは、私には思えないのである。もし絶対的に、父なる神や御使いたちに守られていて、それゆえ罪を犯さなかったのであれば、なにゆえこの後、荒野にて悪魔の試みを受ける必要があるのだろうか。一人の人として、主イエスは、罪を犯す可能性があった。しかし主イエスは、聖霊なるお方に満たされ、聖霊なるお方と共に、一人の大工として、その平凡な人生の30年間を歩まれたのである。この「聖霊なるお方」とは、「助け主」であられる。主イエスも、この「助け主」を必要とされたのである。とすれば、私たちもこの聖霊なるお方と共に歩むことこそが、この世界を旅して行くことへの力となり、また助けとなるのである。》

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