• 日々のみ言葉 2015年6月28日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年6月28日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書1章16節~18節】

    1:16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
    1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
    1:18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

    ◎ショートメッセージ

    《ある説教では、主イエスがシモンとその弟であるアンデレとは、ここで初めてお会いしたかのように語られる場合があるが、ヨハネの福音書によれば、実は主イエスとシモン・ペテロとアンデレは、もうすでに会っているのである。この場面は、少なくとも二回目以上の顔合わせの場面であると言える。バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレと主の愛された弟子とも呼ばれたヨハネは、バプテスマのヨハネのもとで師の手伝いをしていた時に、主イエスがその側を通り過ぎられた時、ヨハネが「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と言って、主イエスについて行き、弟子入りを許されるのである。そしてその次の日に、アンデレは兄シモンを「私たちはメシヤに会った」と言って、主の御元に連れて来た。その時、主イエスは、シモンに「ペテロ」というあだ名をつけるのである。聖書には書かれてはいないが、おそらくヨハネも兄ヤコブを、アンデレと同じように、主の御元に連れて来たと私は思う者である。アンデレが、喜びいさんで、自分の家にシモンを呼びに走って行く時に、どうして一番年若いと言われたヨハネが、自分の兄ヤコブを迎えに、自分の家に走っていかないことがあろうか。もちろんこれは推測ではあるが。ヨハネは自分のことや、自分の兄弟ヤコブのことについては、あえて、その福音書に書き記すことを差し控えたのではないだろうか。なぜなら自分のことを「ヨハネ」とは書き記さず、「主の愛された弟子」と書いているからである。ともあれ主イエスは、彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われ、二人はすぐに網を捨て置いて従ったのだ。これは「初対面」では無理な行動である。主イエスは、このように、時折、私たちに「ついて来なさい」と言われることがある。その時に、ペテロやアンデレのように、「すぐに」「網を捨て置いて」私たちは、主イエスに従って行くことができるであろうか。「網」とは「漁師の仕事」つまり「職業」であり、それを捨て置くことを意味しているのだ。今日、私やあなたに、主は「わたしについて来なさい」と言われないだろうか。もしそう言われたのなら、私たちはすぐに従って行く用意ができているだろうか。》

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