◇◆◇日々のみ言葉
2015年6月29日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書1章19節~20節】
1:19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
1:20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。
◎ショートメッセージ
《主イエスは、シモンとその弟であるアンデレとを召し出された。彼らは何もかも捨てて主イエスに従って行った。次に主イエスは、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。この文面から分かることは、すでに主イエスは、ゼベタイもそしてその息子であるヤコブとヨハネも知っていた。なぜなら「イエスがお呼びになった」と書かれてあるからである。主イエスは何をお呼びになられたのか。それは彼らの名前である。そして父ゼベタイは、なぜすんなりと、家の仕事をほっぽり出して、主イエスの後に息子たちが付き従って行くことを許可したのか。それはゼベタイが主イエスを知っていた、つまり顔見知りであったからである。しかもゼベタイは主イエスを信頼していたともとれるのだ。時間をさかのぼって、ペテロとアンデレの時と同じように、彼らは決して初対面でない。これは「初対面」だとしたら、常識的に言って無理な行動である。考えても見たら良い。私やあなたは、見知らぬ人から、「わたしについて来なさい。あなた方を人間を取る漁師にしてあげよう。」と言われ、何もかも捨てて、ついて行くだろうか。人間的常識において、これは考えられないことなのだ。それは今の時代も同じである。ペテロもアンデレも、そしてヤコブとヨハネおよび父ゼベタイも、主イエスの「メシヤ」としての、力ある権威を認めていたとも考えられるのだ。主イエスの母マリヤは、従姉妹のエリサベツが身籠もったことを、天使長ガブリエルから聞かされた時に、すぐに一人でエルサレムに向かったと、聖書は書き記している。その時には老婆であったエリサベツと、まだうら若き乙女であったマリヤとは、互いに面識があったことがうかがえる。ナザレからエルサレムまでは、約120キロメートル離れているのである。その距離があるにも関わらず、エルサレム神殿の祭司であったザカリヤとその妻エリサベツと面識があったということは、それは何度となく行き来していた結果である。でなければどうして互いを識別することができようか。主の十字架のみもとには、母マリヤとマリヤの姉妹が共にいたことを、ヨハネは書き記している。その名はサロメである。福音書を総合して読むと、このサロメはゼベタイの妻であり、ヤコブとヨハネの母である。そしてこのサロメと、主イエスの母マリヤは姉妹だったということが分かる。とすれば、主イエスとヤコブとヨハネは、幼い頃から面識があったことは、間違いないことである。もちろん確かな証拠はない。しかし私は、すべてが父なる神によって、用意されていたと信じる。主イエスは言われた。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしはあなたがたを選んだのだ。」ペテロもアンデレも、そしてヤコブもヨハネも、そればかりではない私もあなたも、父なる神によって、主イエスによって、選ばれた者なのである。》