◇◆◇日々のみ言葉
2015年7月17日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書2章16節~17節】
2:16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
2:17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
◎ショートメッセージ
《当時のイスラエルは、ローマの属国であり植民地であった。レビは、ローマ帝国の取税人であった。ローマ帝国は、面白い徴税方法を考え出した。すなわち、ローマ人ではなく、ユダヤ人を使って、ユダヤ人同胞からの収税を行なわせたのである。この権利を得るためには、多額の収賄が必要であったことは、今も昔も変わらない。なぜレビは取税人になったのであろうか。そのことについて少しは「マタイの福音書」に書き記してほしかったが、福音書の中心は、「主イエス・キリスト」にあるので、十二使徒については、必要最小限のことしか記入されていない。たとえば熱心党員シモンが、いつ主イエスに従ったのか、またイスカリオテのユダは、いつ主イエスに出会ったのか、聖書の読者は、ぜひとも知りたいものである。また医者ルカにおけるその福音書の続編「使徒の働き」においては、ペテロとゼベタイの子ヤコブを除く十一使徒のその後の詳しい働き、またイスカリオテのユダの代わりに使徒として選ばれたマッテヤについては、ほとんど知ることは出来ない。ただわずかながら伝承だけが残されているだけである。例えばトマスはインド、中国まで伝道したらしい。
さて、主イエスに出会い救われた喜びを祝う為に、多くのレビの友人が、レビの家に集まって来た。その頃のカペナウムにおいて、主イエスの評判は著しく、主イエスと弟子たちのあとには、多くの人々がついて来ていたと思われる。その中には、主イエスと敵対したパリサイ派の律法学者たちもいたのである。レビは金持ちであった。もちろんその多くは、徴税として決められた以上の税金をだまし取ったものである。金持ちであったレビは、それ相応の大きな家に住んでいたと思われる。なぜか。レビが、当時最高の人気を集めていた主イエスをお招きする大宴会である。その喜びを、共に多くの人々に味わってもらおうとして、前庭や中庭などが解放されていたに違いない。もし小さな家だとしたら、たくさんの人々や、主イエスと敵対するパリサイ人や律法学者などが、一緒にその席に同席することができようか。パリサイ人や律法学者は、弟子たちに近づいてこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」おそらく、彼らは主イエスに聞こえないように、弟子たちの耳元にささやいたはずである。しかし主イエスは、その声を聞き逃さなかった。そしてこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
主イエスのこの答えに、パリサイ人や律法学者は、はらわたが煮えかえるほどの怒りを感じたに違いない。彼らは、自分たちこそが、最も正しい者と自称していたからである。今も多くの人々が、主イエスの十字架の敵として歩んでいる。その人々は、自分がいかに罪人であることが全く分からない。病人は、自分が病気であることを知っている。罪人は自分が罪を犯してしまったことを知っており、悔やんでいる。「罪」が、そして「悔い改め」が、魂の奥底においてまことに分からなければ、主イエスの十字架の恵みと、その身代わりの代価も、罪の赦しも、分からないのである。人は自分の罪によって死に、そして自分の罪の報いとして、永遠の地獄に行くことになる。主イエスこそ「救い主」キリストであられる。このお方は、この世に来て下さった創造主であられ、まことの神であられる。このお方を信じる者には永遠の命が与えられ罪が赦されるのである。今日、レビのように私たちも、主イエスを食卓にお迎えしようではないか。》