• 日々のみ言葉 2015年7月31日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年7月31日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書3章13節~15節】

    3:13 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
    3:14 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、
    3:15 悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

    ◎ショートメッセージ

    《主イエスは山に登られた。マルコは、このように短くしか書き記してはいないが、ルカは、『イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。(ルカの福音書6:12~6:13)』と平行記事を書き記している。ということは、主イエスは、正確な時間は把握できないが、間違いなく明るいうちに山に登り、徹夜で祈られたということである。「山」とは言っても、ガリラヤから離れた、ピレモン山やヘルモン山の高い山に登ったのではなく、ガリラヤ湖近辺の丘であったと思われる。おそらくマタイがその福音書に詳細にわたって書き記した『山上の垂訓』を、主イエスが教えられた同じ場所であった可能性が高い。主イエスは、ただ一人で父なる神と話し合うため、弟子たちに離れて待機するよう命じられた。もしかしたら、主イエスが登られた山(丘)の回りを弟子たちが、夜通し警護にあたったのかも知れない。なぜなら大勢の人々が、主イエスに癒やしてもらうため、触れようとしていたからである。弟子たちが、しっかりと警護しなければ、大勢の人々が主イエスに近寄って来て、わずらわさせて、とても夜通し祈ることは出来なかったはずである。祈りとは、こちら側が一方的に願いごとを並べたてて話すことではない。父なる神との人格との交わり、つまり会話であると言える。この時、主イエスと父なる神は、誰を十二使徒として選ぶか、真剣に交わり、真剣に話し合われたのである。もし父なる神が、「十二使徒は、次の誰々、以上十二名である。我が子イエスよ。任命せよ。」と一方的に、主イエスに伝えるだけであるならば、おそらく1分もかからないはずである。それが徹夜の祈りになったこととは、主イエスと父なる神との間に、「誰を選ぶのか」について長時間にわたり、話し合いの攻防が持たれたということだ。主イエスが、具体的にどんなことを父なる神と話されたのか、聖書には書き記されてはいない。また主イエス自身も、弟子たちに詳しく話さなかったと思われる。ともあれ夜明けが来て、主イエスは弟子たちをみもとに呼び寄せた。ルカによれば、弟子たちは十二人以上もいたということになる。そしてその中から十二人を選ばれた。そして彼らに「使徒」という名を与えられた。「使徒」とは、「使命を持って使わされた人」という意味である。彼らには三つの使命が与えられた。何か。主イエスの身近に置くため。二つ目は、福音を宣べ伝えるため。三つ目は、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。主イエス一人で、悪霊を追い出し、人々を癒すのには、連日あまりにも大勢の人々が駆けつけるので、対処するのに限界があった。なぜなら主は私たちと同じように、肉体を持たれたまことの人であったからだ。当然、喉は渇く、お腹は減る、ぐったり疲れるのは当たり前。休みも睡眠も必要だったからである。そして、ここからいよいよ十二弟子の「使徒」としての、弟子訓練が始まることとなる。主がみもとに弟子たちを引き寄せられた時、その中にバルサバと呼ばれ別名ユストというヨセフと、マッテヤの二人もいたことは、間違いない。この時彼らは選ばれなかった。しかし後に、イスカリオテ・ユダの代わりにマッテヤが選ばれることとなる。十二使徒は主イエスが選ばれた。そして私たちも、主イエスが選ばれた。主は言われる。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選び、任命したのである。」》

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