◇◆◇日々のみ言葉
2015年7月30日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書3章11節~12節】
3:11 また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。
3:12 イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。
◎ショートメッセージ
《マルコは、その福音書に、一番最初に書き記した主イエスのみわざは、カペナウムのユダヤ人会堂シナゴークにおいて、悪霊(汚れた霊)に取り憑かれた人を、悪霊から解放することであった。『するとすぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい俺たちに何をしようというんだ。あんたは俺たちを滅ぼしに来たのだろう。俺たちはあんたが誰だか知ってるぜ。神の聖者だ。」イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。』この時にも、シナゴークと同じように、汚れた霊どもが主イエスを見ると、みもとにひれ伏したとある。この訳はおかしな訳である。霊は普通、人間の目には見えない。しかも悪魔・悪霊どもは狡猾であり、潜んでいて、普通は姿を現わさないのである。ここで主イエスのみもとにひれ伏したのは、悪霊に取り憑かれた人々である。悪霊がその人の人格までもコントロールし、「あんたは神の子だ」と叫ばせたのである。
プロテスタント・キリスト教会のある教派は、悪魔や悪霊を空想の世界の創造物として、その存在を認めようとはしない。その教会の礼拝のメッセージにおいて、悪魔・悪霊の話が講壇からされることは、ほとんどない。私が、一番最初に籍を置かせていただいた教会では、全く悪魔・悪霊のことも、教えられなかった。そればかりではない。主イエスが行われた奇跡や癒やしの時代は、新約聖書が完結した時に終わったとも教えられた。預言や異言もすたれたとも教えられたのである。私は、聖書は一言一句、誤り無き神の言葉と信ずる者である。聖書に書かれたことはすべて真実であると信ずる者である。私たちクリスチャンは、死ぬか生きるかの命がけの霊的戦い、しかも最前線において、敵である悪魔・悪霊との戦場に置かれているのである。そのことを使徒パウロはこう言っている。『悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人への手紙6:11~6:12)』もちろん私たちは、いつも悪魔・悪霊に目を留めるのではない。主イエス・キリストの「十字架」のみわざ、そして流された「主イエスの尊い血潮」に目を向けるべきである。悪魔・悪霊が最も忌み嫌う言葉は、「主イエスの御名」そして「主イエスの血潮」である。この二つの言葉が、どれほどすさまじい力を持っていることを、どれだけのクリスチャンが知っているだろうか。興味ある方は、マルコシュ・パブリケーション社発行、泉パウロ著「大発見・主イエスの血潮」を読まれることを勧める。また同社発行ベニー・ヒン著「力ある主イエスの血」も素晴らしい本である。さて汚れた霊どもは、その取り憑いた人を使って主イエスのみもとに来て、叫んだ。なぜなら悪霊どもは、主がどなたであるのかを、本当に知っていたからである。知っていることと、信じることは別である。悪霊どもは、主イエスを信じていたのではない。本当に知っていたのだ。彼らは、かつては天使(御使い)だったのである。しかも主イエスが創造した天使であったのだ。その時からの知り合いだと言っても良いかも知れない。その天使が、天使長ルシファー(悪魔)と共に堕落して、悪霊になったのである。今、世界中において、そして日本において、起こっている様々な問題の根本は、悪魔・悪霊が関与していると言っても言い過ぎではない。主イエスが、なぜ悪霊どもに、だまるよう命じられたのか。それは、主イエスは、悪霊どもから栄光を受けるのではなく、私たち人間から栄光をお受けになられるべきお方であるからだ。主イエスこそ神の御子であり、救い主、癒やし主であられるからだ。誰の。私たち人間の。神が創造された最高傑作である私たちの。》