• 日々のみ言葉 2015年8月2日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年8月2日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書3章9節~10節】

    3:18 次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、
    3:19 イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。

    ◎ショートメッセージ

    《主イエスは、大勢の弟子の中から、特別に十二人を選ばれ、使徒として任命された。使徒とは、「使命に遣わされた者」という意味である。そしてその十二使徒の中において、最も重要な弟子として、シモン・ペテロとゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネを選ばれた。この三人は、変貌の山「ヘルモン山」において、栄光の姿に変わる主イエスとモーセとエリヤが話し合っている姿を目撃することとなる。その三人の弟子以外の残りの九人の弟子について、その名が記されているのである。『次に、アンデレ』このアンデレこそが、主イエスのみもとに兄シモンを連れて来たという、最高の取り成しを成した者である。またアンデレと同郷の者ピリポ、そしてピリポの友人であるバルトロマイ(ナタナエルと同一人物)と続き、取税人レビことマタイ、疑り深いトマスとアルパヨの子ヤコブ(小ヤコブとも呼ばれていた)。おそらくアルパヨの子レビ(すなわちマタイ)の弟であることは、ほぼ間違いない。そしてタダイ(ヤコブの子ユダと同一人物)と熱心党員シモン。熱心党とは、武力によってローマを打ち倒そうと主張した過激な一派である。何時、このシモンが主イエスに出会ったのか、またタダイはどのような人物であったのか、残念だが分からない。そして最後に名前を連ねたのが、イスカリオテのユダである。これはケリオテ出身のユダという意味であり、何とこのユダだけが、ガリラヤ出身ではない。ここに最大の疑問が生じる。それは、なぜ父なる神と主イエスは、このイスカリオテのユダを、十二使徒に選ばれたのかということである。しかも裏切ることが分かっていてである。主イエスは、最後まで、イスカリオテのユダに対して深い愛を持って、師として、そして友として、悔い改めを促す努力をされる。しかし聖書は、悲しいかな、その悲しき結末を書き残している。ユダはおのれの罪の深さに、首をくくって自殺するのである。しかも主イエスが十字架に架かられる前に。「すべてが完了した」と言われる前に。主がすべての人の罪を背負って身代わりの死を遂げる前に。贖いのみ業の前に。なぜユダは、主イエスの十字架のみもとに戻なかったのであろうか。そして主イエスのみもとにひざまづいて、罪の悔い改めと赦しとをこわなかったのであろうか。もしそうしていたとしたら、ユダの罪は赦されたと私は確信する。こんな場面が目に浮かぶ。主イエスの十字架のみもとに、私たちのために流された尊い血潮がしたたる足下に、ひざまづき号泣しながら「主よ。あなたを裏切り、銀貨三十枚で売った私を赦してください。」と言うユダの姿が目に浮かぶ。その時、十字架上の主イエスは、ユダに微笑みながら、こう言われるのだ。「友よ。あなたの罪は赦された」と。しかし現実は、歴史の上では、そうならなかったのである。私たちは罪を犯す者である。残念ながら、あやまちを犯しやすい者である。悪魔は常に、クリスチャンを堕落させようとして誘惑してくる。その誘惑に負けて罪を犯してしまったとしたら。「もう自分は終わりだ。おしまいだ。」と思う前に、今一度、主イエスの十字架のみ前に立つことを、戻ることをお勧めしたい。主は、戻って来る者を拒まれない。主は、いつもそこに居てくださる。もちろん罪を犯した場合には、人はその罪の刈り取り、すなわち責任を負わなければならないが。その時には、もう一度、主が共に、友として歩んでくださる、と私は確信する者である。》

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