◎本日の聖書箇所【創世記22章1節~14節】(旧約聖書p.34上段右側)
22:1 これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。神が彼に「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は「はい、ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、私があなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。アブラハムは全焼のささげ物のための薪を割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ向かって行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、遠くの方にその場所が見えた。
22:5 それで、アブラハムは若い者たちに、「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のささげ物のための薪を取り、それを息子イサクに背負わせ、火と刃物を手に取った。二人は一緒に進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」彼は「何だ。わが子よ」と答えた。イサクは尋ねた。「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。」こうして二人は一緒に進んで行った。
22:9 神がアブラハムにお告げになった場所に彼らが着いたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築いて薪を並べた。そして息子イサクを縛り、彼を祭壇の上の薪の上に載せた。
22:10 アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼に呼びかけられた。「アブラハム、アブラハム。」彼は答えた。「はい、ここにおります。」
22:12 御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今私は、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。
22:14 アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「【主】の山には備えがある」と言われている。
◎メッセージ【主の山には備えあり(アドナイ・イルエ)】
《「アドナイイルエ」とは「主の山には備えあり」と言う意味です。今日の聖書箇所は、アブラハムの最大の試練の場面であります。
「アブラハムよ」
「はい、ここにおります」
「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、私があなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」
神様の呼びかけの言葉に、アブラハムはすぐに従います。モリヤの地とは、後にエルサレムの神殿が建てられた丘の名前であり、アブラハムが住んでいたベエル・シェバ(七つの井戸)から、約80キロの道程で、歩いて3日ほどの距離です。
「お父さん。」
「何だ。わが子よ」
「火と薪はありますが、全焼のささげ物にする羊は、どこにいるのですか。」
「わが子よ、神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えて下さるのだ。」
この時イサクは、伝説によりますと37歳であったと言われています。アブラハムの信仰も素晴らしいのですが、息子イサクの信仰にも目をみはるものがあります。イサクは、父アブラハムを、本当に信頼していたのです。
アブラハムは、祭壇を築いて薪を並べます。そしてイサクを縛り、祭壇の薪の上に載せ、イサクを屠ろうとしたのです。
どうして37歳の大人が、抵抗することもなく、年老いて力の衰えている父親に縛られることができるのでしょうか。すでにイサクは、すべてを知っていたのです。殺されることを覚悟していたのです。とその時、
「アブラハム、アブラハム。」
「はい、ここにおります。」
「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今私は、あなたが神を恐れていることがよく分かった。」
アブラハムが目を上げて見ると、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていました。アブラハムはその雄羊を取り、それを息子の代わりに、全焼の捧げ物としたのです。この雄羊こそが、神の小羊、主イエス・キリストのひな形です。
試練の中にある時に、どうして目をあげることができるでしょう。私たちは下を向いてしまうのです。何か、すぐにいやな事やつらい事があると、すぐに下を向いてしまいます。
私たちクリスチャンは上を見るべきです。そこには、主イエス・キリストの十字架がそびえ立っています。
私たちは、主イエスから目をそらしてはなりません。このお方だけが、唯一の救い主なのです。そして、私たち一人一人を本当に愛しておられます。》