• 日々のみ言葉 2015年8月13日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年8月13日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書4章2節】

    4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。

    ◎ショートメッセージ

    《『私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口の言葉に耳を傾けよ。私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。
     それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。
     それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを。(詩篇78:1~78:4)』

     詩篇78篇には、やがて来られるメシヤなるお方が、「たとえ話」を持って、真理を説き明かされることが預言されている。その預言通りに、主イエスは、多くのことを「たとえ」にて教えられた。主イエスのメッセージの中には、何と多くのたとえ話が、語られているのだろうか。

     主イエスの語られるたとえ話は、誰にもわかりやすく、またその時のユダヤの時代背景をもとに語られているが、その内容は、かなり霊的に深いものである。よって時には、弟子たちでさえも、主イエスが、何を語られているのか、その真意を汲み取ることができなかった。その場合には、主イエスに、その解き明かしをお願いしたのである。主は、それに応じて、さらにわかりやすく弟子たちに教えられた。

     今回のたとえ話は、『種を蒔く人のたとえ』である。このたとえ話は、何とマタイ・マルコ・ルカにおける3つの共観福音書に詳しく掲載されている。と言うことは、とても大切な真理を主イエスが教えておられることが分かる。

     ユダヤ人は、安息日(土曜日)には、ユダヤの会堂(シナゴーク)にて集まり、礼拝を行なっていた。その時には、旧約聖書の巻物が開かれ、み言葉が拝読され、そしてラビと呼ばれたパリサイ人や律法学者たちが、その解釈について人々に教えたのである。しかしその内容は、単なる説明に終わり、または「口伝律法」、つまり「伝承」に、どう適応させるべきかであった。要するに、彼らは学者であったのである。学者は、単純なことを難しく、難しいことは、さらに難しく話す。それは、自分の知識のひけらかしの何ものでもない。しかし主イエスは、誰にも分かりやすい、易しい言葉で、真理を説き明かされた。

     だが、パリサイ人や律法学者たちは、今まで学んで来たその知識や経験などがじゃまをして、主イエスの語らえるたとえ話から、霊的奥義をつかむことはできなかった。つまり教養、プライドが、彼らの目を耳を曇らせたのである。
     
     知識は大切である。知識はもちろん己(おのれ)の身を助ける。しかし聖書は霊的書物である。この書物は、真の著者なる聖霊なるお方の霊によって、私たちの霊の奥深くにおいて理解されるべきものなのだ。それゆえ、まさしく奥義なのである。

     今でも多くの人々の霊的な目は、耳は、敵である悪魔(サタン)によって曇らされている。どれほど多くの人々が、まことの神、創造主なられるお方がおられることを、信じることができないのであろうか。主イエスこそ、救い主であられ、真理そのものであることも。主イエスが生きておられた当時のイスラエルでも、そうであったし、今でも、その真実は残念ながら変わらない。

    『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。』(イザヤ書6:9~6:10)》

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