◎本日の聖書箇所【使徒の働き21章27節~40節】(新約聖書p.280上段右側)
21:27 ところが、その七日の期間が終わろうとしていたとき、アジアから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、群衆をみな扇動して、彼に手をかけ、
21:28 こう叫んだ。「イスラエルの皆さん、手を貸してください。この男は、民と律法とこの場所に逆らうことを、いたるところで皆に教えている者です。そのうえ、ギリシア人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所を汚しています。」
21:29 彼らは、エペソ人のトロフィモが町でパウロと一緒にいるのを以前に見かけていて、パウロが彼を宮に連れ込んだと思ったのである。
21:30 そこで町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕らえ、宮の外へ引きずり出した。すると、ただちに宮の門が閉じられた。
21:31 彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。
21:32 彼はただちに、兵士たちと百人隊長たちを率いて、彼らの所に駆けつけた。人々は千人隊長と兵士たちを見て、パウロを打つのをやめた。
21:33 千人隊長は近寄ってパウロを捕らえ、二本の鎖で縛るように命じた。そして、パウロが何者なのか、何をしたのかと尋ねた。
21:34 しかし、群衆はそれぞれに違ったことを叫び続けていた。千人隊長は、騒がしくて確かなことが分からなかったので、パウロを兵営に連れて行くように命じた。
21:35 パウロが階段にさしかかったとき、群衆の暴行を避けるために、兵士たちは彼を担ぎ上げなければならなかった。
21:36 大勢の民衆が、「殺してしまえ」と叫びながら、ついて来たからである。
21:37 兵営の中に連れ込まれようとしたとき、パウロが千人隊長に「少しお話ししてもよいでしょうか」と尋ねた。すると千人隊長は、「おまえはギリシア語を知っているのか。
21:38 では、おまえは、近ごろ暴動を起こして、四千人の暗殺者を荒野に連れて行った、あのエジプト人ではないのか」と言った。
21:39 パウロは答えた。「私はキリキアのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。お願いです。この人たちに話をさせて下さい。」
21:40 千人隊長が許したので、パウロは階段の上に立ち、静かにするよう民衆を手で制した。そして、すっかり静かになったとき、ヘブル語で次のように語りかけた。
◎メッセージ【パウロの捕縛】
《引き続き、エルサレムでのパウロの場面となります。パウロは、主の兄弟ヤコブとエルサレム教会の長老たちの提案を受け入れ、彼らの中の四人にユダヤ人たちと共に、ナジル人の誓願を果たす為に宮に入り、断食と祈りの時を持っていました。その七日目のことです。
アジア州の首都エペソから来たユダヤ人は、パウロがトロフィモと一緒にエペソを歩いていたことを知っています。トロフィモとは、エペソ教会の指導者の一人でした。そして、今回もエルサレムにおいて、トロフィモと一緒にいることを目撃したのです。それゆえに、神殿の中にいるパウロを見つけた時、その四人のうち一人がトロフィモであると勘違いして騒動を起こし、パウロを捕らえ、宮から引きずり出したと言うわけです。彼らは、パウロを殺そうとして打ちたたいていました。
さて、普段はエルサレムには、総督付きの百人隊長と百人の兵士がアントニヤ要塞に常駐しているのですが、この時には千人隊長がエルサレムにいました。と言うことは、ローマ軍の一師団が常駐していたことになります。千人隊長はと百人隊長と兵士たちと共に宮に駆けつけ、殺されかけたパウロを救出し保護します。もう少し、千人隊長の到着が遅かったとしたら、パウロはここで殉教し、ローマを見ることはなかったでしょう。しかし、何時の時も、主の御手が早すぎることも遅すぎることもありません。千人隊長はパウロを守りながら、兵舎の中に入れようとした時、パウロはギリシャ語で彼に話しかけます。
「少しお話ししてもよいでしょうか」
「おまえはギリシア語を知っているのか。では、おまえは、近ごろ暴動を起こして、四千人の暗殺者を荒野に連れて行った、あのエジプト人ではないのか」
あのエジプト人とは、紀元54年に、あるエジプト人が預言者であると自称してエルサレムに現われ、反乱を起こそうとしたが失敗し、逃げて行方不明なったと言う事件が数年前にあありました。千人隊長は、そうではないかと考えたのです。するとパウロは応えます。
「私はキリキアのタルソ出身のユダヤ人で、れっきとした町の市民です。お願いです。この人たちに話をさせて下さい。」
この時、パウロはあえて自分がローマ市民であることを証ししていないのです。千人隊長は許可します。それで、パウロは階段の上に立ち、民衆を手で制し、すっかり静かになったことを見てヘブル語で語りかけます。
この時、パウロは、以前最高議会において、ひるむこと無く、主イエスが神の御子であると語ったシモン・ペテロを、そして石打の刑にされることも恐れずに、力強く語ったステパノを、思い起こしていたのではないでしょうか。
今度は傍観者として聞く側ではありません。今度は力強く語る側なのです。その場に味方はいません。パウロは、たった一人に見えましたが、実は、主イエスが共におられたのです。
このように、私たちも決して独りぼっちではないのです。創造主なるお方が、神の「ひとり子であられる「主イエス・キリスト」が、そして助け主であり慰め主である聖霊が、何時も共にいて下さるのです。それゆえ私たちは、主にすべてを委ね、進んで行けるのです。》