◇◆◇日々のみ言葉
2023年5月16日(火)
◎聖書箇所【マルコの福音書4章10節~12節】
4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
◎ショートメッセージ
《引き続き、同じ箇所からとなります。明日は先に行きましょう。現代訳を掲載します。
『4:10 イエスが一人だけになると、いつも一緒にいる弟子たちが、十二弟子と共に、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがた弟子たちには、神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには許されていません。ですから、すべてたとえで言わなければならないのです。
4:12 それは、旧約聖書にあるように、「彼らは確かに見るには見るが見えず、聞くには聞くが悟らない。悔い改めて赦されることがないほど悪くなっている」のです。」』
今日は、主イエス様が引用されたイザヤ書6章からのみ言葉について考えて見ます。父なる神様は、なぜ、イザヤを召し出された時にこのように言われたのでしょうか。
『私は、「だれを遣わそう。だれが、我々のために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。
「ここに、私がおります。私を遣わして下さい。」すると仰せられた。
「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:8~6:10 )』と。
「この民」とは、選民イスラエルのことでありユダヤ人のことです。現代訳は、彼らは悔い改めて赦されることがないほど悪くなっている、と書かれています。
主イエス様が言われたのは、この当時のパリサイ人や律法学者たちを指しています。彼らは、自分たちこそが、神様の目から見て、最も清い存在であって、悔い改める必要はないと自負していたのです。これは傲慢の何物でもありません。
私たちは、主の十字架によって罪赦されました。しかし、未だに罪を犯してしまうことも事実です。よって日々、悔い改めの連続です。「悔い改めは過去にすでにしました」、と言う人がいたら、パリサイ人や律法学者たちと全くかわりありません。》