• 日々のみ言葉 2015年8月28日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年8月28日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書4章33節~34節】

    4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、み言葉を話された。
    4:34 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。

    ◎ショートメッセージ

    《『私の民よ。私の教えを耳に入れ、私の口の言葉に耳を傾けよ。私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。それは、私たちが聞いて、知っていること、私たちの先祖が語ってくれたこと。
    それを私たちは彼らの子孫に隠さず、後の時代に語り告げよう。主への賛美と御力と、主の行なわれた奇しいわざとを。(詩篇78:1~78:4)』

    「メシヤ」なるお方は、「たとえ話」をもって語り告げることが、詩篇には預言されていた。それゆえ、主イエスは、「多くのたとえ」をもって、人々に、そして弟子たちに、み言葉を話されたのである。

     ここで、「彼らの聞く力に応じて」とあるのは、主イエスは、何度も同じ「たとえ」を用いられたと思われる。ある時は、まったく同じことの繰り返しのように、ある時は、少し内容を変えて。同じ「たとえ」を何度も話し、教えることによって、弟子たちは、少しづつ、少しづつ訓練されていったのだ。

     人間、何でもすぐには覚えられないことは明白な事実である。普通の人ならば、覚えるためには、必ず反復が必要である。もちろん中には、驚異的な記憶力や理解力を持つ人は、どこの時代でも例外なく存在する。そう。サウロ、後のパウロのように。
     しかし主イエスが選ばれた十二使徒たちは、ごく平凡な人々であった。十二人の中の三分の一は、ガリラヤ湖の漁師だったのである。彼らは、無学な人たちであったのだ。そのことを、当時の最高の指導者および教育者たちが、はっきりと告白している。

    『翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。
     そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
     『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
    彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。(使徒の働き4:5~4:13)』

     主イエスは、三年半にわたる公生涯において、十二使徒を、「たとえ話」を持って訓練された。「そして、ただご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。」ということは、弟子たちだけが、主が語られた「すべてのこと」についての「解き明かし」を知っていると言うことである。
     残念ながら、その全貌は、聖書には書き記されてはいない。

     使徒ヨハネは、その福音書の最後に、こう書き記している。
    『イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(ヨハネの福音書21:25) 』

     たとえ、無学な人であっても、主イエスが用いられるのなら、その人は大きな働きをすることとなる。その時、神に栄光が帰されるのである。それは、誰も誇らないためであり、神だけが栄光をお受けになられるからである。》

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