• 日々のみ言葉 2015年8月30日(日)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2015年8月30日(日)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書4章36節~37節】

    4:36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。
    4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。

    ◎ショートメッセージ

    《「向こう岸へ渡ろう。」と、主イエスは弟子たちに仰せられた。
     そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。

     まるで絵を見ているような場面である。この時、残された群衆の気持ちは、いかばかりであったであろうか。
     主イエスに触れるために、主イエスに癒やしてもらうために、多くの人々が詰めかけていたはずである。主イエスは、大勢の人々の手からのがれるために、シモン・ペテロの持ち舟を利用された。しかも、それは一度だけではない。聖書に書かれているだけでも、少なくとも3回以上は、主イエスは、シモンの持ち舟を用いられている。

     実は、漁師は、シモン・ペテロと、その弟アンデレだけではない。ゼベタイの子である、ヤコブとヨハネも漁師であった。しかも、ゼベタイは、ガリラヤ湖の漁師の中においても、相当裕福な漁師であった。なぜなら、使用人を雇い、そして数隻の持ち舟があったからだ。日本で言うならば「網元」、あるいは「親方」とも言った立場かも知れない。そうだとしたら、エルサレムに自分の家(別荘にあたる)を、持っていても決して不思議なことではない。

     私は、なぜ主イエスが、あえてヤコブとヨハネの舟ではなく、シモン・ペテロの舟を用いたのかを、考えた見た。まず数隻の舟は、ヤコブとヨハネではなく、二人の父ゼベタイの所有であったこと。もちろんヤコブもヨハネも、主イエスに頼まれば、父ゼベタイの舟を用意することもできたであろう。しかし主イエスは、あえて、ゼベタイの許可なしに舟を使うことを、しなかったのでないだろうか。
     そればかりではない。やがて十二使徒のリーダーとして立つこととなるペテロへの配慮が感じられるのである。主は、まことに愛のお方であられる。

     さて、ガリラヤ湖は、長さが21キロメートル、幅が12キロメートルの大きさである。向こう岸と言うと、おそらく幅12キロメートルの距離の対岸であったと思われる。とは言っても、夕方である。間もなく夜が訪れる。

     当時の舟は、現在のように、モータースクリューなど装備しているはずもなく、おそらく簡単な帆のある、ほとんど手こぎ舟であった。12キロメートルとは、決して短い距離ではない。その距離を、ボートのようにこいで行かなくてはならないのだ。

     ついて来た「他の舟」とは、どういうことか。この時、主イエスの弟子たちは、十二使徒だけではなく、他に六十人以上の弟子がいたと思われる。彼らも舟に乗っていたのである。そして湖の中間あたりであろうか、とにかく引き返すことの出来ない場所であることは確かである。岸に近ければ、すぐに戻れてしまうから、主の奇跡の有り難みが薄れてしまうこととなる。その時である。

    「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。」

     何度も言う。十二使徒の中には、ガリラヤ湖の漁師がいた。何人か。そう四人である。彼らは自他ともに認めるプロの漁師であった。彼らは幼い時から、この湖を見ながら育った。彼らは、この湖を知り尽くしていた。
     そこへ、激しい突風が巻き起こったのである。大波が舟に押し寄せて来た。そして、ついに舟の中に、大量の水が流れ込んで来たのだ。いよいよ絶体絶命の時が訪れようとしていた。

     しかし、ここに一番大切な真理があることを、私たちは決して忘れてはならない。「向こう岸へ渡ろう。」と言われたのは、主イエスご自身である。このお方は天地を創造された創造主であり、全地全能のお方、神様なのである。そして、そのお方が、舟に共に乗っておられることを。》

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