◇◆◇日々のみ言葉
2015年8月31日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書4章38節】
4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
◎ショートメッセージ
《イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。 イエスは彼らに言われた。「私について来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。(マタイの福音書4:18~4:22)』
主イエスは、ガリラヤ湖畔にて、声をかけられ4人の者を弟子とされた。しかし、ヨハネの福音書からは、この時の出会いは、最初ではなく、数回目であったことが判明している。彼らは、漁師であった。しかもプロの漁師であった。
ガリラヤ湖は、すり鉢状の形をした湖で、夜になると囲まれている周りの崖から、湖面に向かって突風が吹き荒れることが多かった。しかしガリラヤ湖の漁では、「夜通し」の漁も珍しいことではなく、透明度の高い湖では、投網が魚に見えてしまう昼よりも、見えない夜の方が漁に適していたからである。よって、シモン・ペテロとその弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとその弟ヨハネは、何回もガリラヤ湖の急変を経験していたし、また良く知っていた。そしてその時の対処方法にも熟知していたと思われる。
実はこの出来事は、紀元前400年以上前に編纂された、と言われている詩篇に、すでに預言されていた。詩篇107篇にである。
『船に乗って海に出る者、大海であきないする者、
彼らは主のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た。
主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。
彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいはみじめにも、溶け去った。
彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。
この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。
主があらしを静めると、波はないだ。
波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。
(詩篇107:23~107:30)』
要するに、「想定外」とも言うべき、今まで漁師である彼らが経験したこともないような、凄まじい嵐が吹き荒れたのである。おそらく神は、彼らに恐怖を極限に与えようとして、稲妻は走り、雷鳴がとどろき、横殴りの激しい雨が彼らをたたきつけたに違いない。なぜなら彼らは、ついに「死」を覚悟せざるを得なかったからである。
もちろん彼らは、ただ手をこまねいて見ていたわけではない。彼らは、生き残るために、そして主イエスを助けるために、あらん限りの努力をした。舟に入って来る水を掻き出し、岸辺に舟を戻そうとして帆を操縦し、力の限りこぎ出していた。
それにも関わらず、舟は激しく上下に揺れ動き、彼らが掻き出す水よりも、舟に入って来る水の方が多く、ついに万策尽きたというわけだ。
しかし、一つだけ彼らは忘れていた。その舟には、主イエスが乗っておられたことを。
しかも主イエスは、水浸しになりながらも、舟のともの方で、何と眠っておられたのである。まるでヨナのように、ぐっすりと眠っていたのだ。なんたることか。なんたるお人か。
その時、弟子たちである彼らの怒りが爆発した。そして主イエスを起こし叫んだのだ。
「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
「向こう岸へ渡ろう。」これは、主イエスが言われた言葉である。
このような状況を主イエスが、何とも思わぬはずが、なかろうか。》