• 2024年1月21日礼拝メッセージの概要

    ◎本日の聖書箇所【マタイの福音書6章31節~34節】(新約聖書p.11上段左側)
    6:31「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
    6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
    6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
    6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

    ◎メッセージ【2024年標題聖句から・そのⅢ(神の国民の権威と権利とは?)】
    《今年の標題聖句からの三回目のメッセージとなります。今回は、「神の国民に与えられた権利と権威」について学びたいと思います。
     私たちは、神の国、すなわち主イエス様が言われた「御国」の民とさせていただきました。そればかりではありません。私たちは、もっとそれ以上の関係、つまり神様の子どもとされたのです。よって、創造主なる神様を、「父なる神様」あるいは「天のお父様」と呼ぶ権利が与えられています。使徒パウロは、ローマ人への手紙において、このように教えています
    『神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊と共に、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります』と。
     私たちは、主イエス様を長兄として、イエス様の弟や妹に当たる者なのです。それゆえに、主イエス・キリストと共に共同相続人とされたのです。もちろん、すべては、主の十字架が、成せる御わざであることは、言うまでもありません。
     そして、「聖徒」でもあります。使徒パウロはエペソ人への手紙において、私たち聖徒の受け継ぐものが、どれほどのものであるのかを教えています。
    『また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。』と。
     主イエス様は、最後の晩餐を終え、ヨハネ・マルコの家を後にしようとしていた時に、十一弟子たちに、このような約束をされました。
    『「あなたがたが私にとどまり、私の言葉があなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、私の弟子となることによって、私の父は栄光をお受けになります。」』と。
     ここで、主は「何でも欲しいものを求めなさい。」と言われました。もちろん神様の御心に適うことをです。
     さて、主は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」と言われました。これは、求め続けると言うことでもあります。
     また、ここでは「明日」と言う言葉が出て来ます。私たちには「明日」のことは分かりません。しかし、神様にとっては、過去も現在もそして未来もすべてが現実なのです。よって明日を知っておられるお方は、神様ただお一人です。だから、「明日のことは明日が心配します」と言うことは、明日を知っておられる神様が心配して下さると言うことなのです。
     旧約時代における最高の預言者と言われたエリヤは、一時落ち込んだ時がありました。
     しかし、神様はエリヤに言われたのです。
    「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。私はそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」と。そして神様の言葉のとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくなりませんでした。何と、エリヤとやもめの家族親族全員が養われたのです。
     私たちは、この神様を信じています。主イエス様は「五千人の給食」と「四千人の給食」の奇跡を通して、ご自身が誰であるのか明らかにされました。
     私たちは、神の国民であり、聖徒であり、神の子どもです。それだからこそ、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配する必要はないのです。主が、与えて下さることを、十字架によって流された尊い血潮によって、保証して下さっているのです。》

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