◇◆◇日々のみ言葉
2024年7月5日(金)
◎聖書箇所【第Ⅰコリント人への手紙5章3節~5節】
5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。
5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊において共におり、私たちの主イエスの権能をもって、
5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所からとなります。再度ですが、現代訳を掲載します。
『5:3 私はこのことを聞き、遠く離れていても、これに対して取るべき処置を考えている。主イエスのお名前によってなすべきことが何であるか、それはもう明らかなことだ。 5:4 あなたがたは早速、教会において会合を開きなさい。私も心だけはその場にいて、主イエスの権限で開かれたその会合で、
5:5 そのような者を除名処分に付すだろう。それは、彼がその処分に服し、悔い改めることによって、最後に救われるためである。』
「このような者をサタンに引き渡したのです」と言っていますが、この事は、パウロに取っては非常につらく、また悲しいことでした。
なぜなら、コリント教会は、彼が天幕造りによって自ら働いたお金を投入して伝道し、立てあげた教会であったからです。
また、かつて同労者でもあり、信頼していた弟子のデマスは、信仰をなくしてしまい、パウロの元を去って行きました。
『デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまいました。(第Ⅱテモテ4:10抜粋)』
この後、彼が悔い改めて戻って来たのかは、残念ながら聖書には書かれてはいません。なぜ、このようなことが起きるのでしょうか。可能性として考えられますことは、本当は救われていなかったのではないでしょうか。
今の時代においても、知識では、主イエスが救い主であることを知っていたとしても、あるいは聖書に通じていたとしても、救われていないケースがあることを、私たちは知っています。それを、「頭の信仰」と言っています。
救われると言うことは、救い主である主イエスを、その人の心の奥底に、その人の人生にお迎えするということです。
自分はクリスチャンであると思っていても、「小羊の命の書」に名前が書かれていなかったとしたら、これほどの悲劇はありません。》