◎本日の聖書箇所【ルカの福音書6章39節~42節】(新約聖書p.122下段真中)
6:39 イエスはまた、彼らに一つのたとえを話された。「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか。
6:40 弟子は師以上の者ではありません。しかし、だれでも十分に訓練を受ければ、自分の師のようにはなります。
6:41 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分自身の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
6:42 あなた自身、自分の目にある梁が見えていないのに、兄弟に対して『兄弟、あなたの目のちりを取り除かせてください』と、どうして言えるのですか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、兄弟の目のちりがはっきり見えるようになって、取り除くことができます。
◎メッセージ【盲人と目のちりと目の梁】
《主イエスは、一つのたとえを話されました。
「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に落ち込まないでしょうか。」
これは、目の見えない人を、主イエスがあざ笑っているのではありません。主が言われている盲人とは、律法学者やパリサイ人たちのことなのです。
彼らは、旧約聖書に通じていながら、霊的なことは何一つ、理解することが出来ませんでした。救い主イエスが、目の前におられるのにも関わらず、彼らの目は見えていなかったのです。まさに盲人であったわけです。
実は、今の時代でも同じようなことが起こり得るのです。どんなに聖書を知っていたとしても、それが救いではないと言うことです。
知識で神様を知ることは、大切なことなのですが、生きておられる主イエス・キリストの人格とに出会わなければ、その人は神様を真に知ったのではなく、また救われたとは言えないのです。
よって、このたとえの真意は、律法学者やパリサイ人は、自分たちの仲間を救いに導くことは出来ないと言うことであり、まさしく二人とも、底知れぬ穴に落ちて行くことになると言われたのです。
そして、次に主イエスが言われたことは、「目のちり」と「目の梁」のことです。
私たちは、人の欠点にはすぐ気づきます。人には、良い点や良い所がたくさんあるにも関わらず、どうしても、欠点や悪い所に目が行ってしまうものです。
主は、相手の欠点を「目のちり」と言っています。そして、自分の方には、ちりではなく、目に太い梁が突き刺さっていると言われるのです。
人は、自分の方が相手よりも欠点が少ないと、つまり「ましだ」と思っているわけです。これは、まさに傲慢そのものです。実は、人は自分が思っている以上に欠点だらけの者なのです。まず、「自分の目から梁を取り除きなさい」と、主が言われたことは、「へりくだりなさい」と言うことです。
そのことについて、使徒パウロは、『何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。』と勧めています。。
裁きあう所には愛はありません。しかし、赦しあう所には、まさしく愛があるのです。これこそが、十字架に掛かる直前に、主イエスが言われた、新しい命令なのです。
『「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これが私の戒めです。」』と。教会は、裁き合う場所ではなく、互いに赦し会い、敬愛する所なのです。》