◎本日の聖書箇所【ルカの福音書7章29節~35節】(新約聖書p.125上段左側)
7:29 「ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。
7:30 ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみ心を拒みました。
7:31 それでは、この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか。彼らは何に似ているでしょうか。
7:32 広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』
7:33 バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言い、
7:34 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。
7:35 しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」
◎メッセージ【すべての知恵の子らとは?】
《「ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみ心を拒みました。」
主イエスは、バプテスマのヨハネの弟子であった、シモン・ペテロの弟アンデレとゼベダイの子ヨハネから聞いたことが考えられます。ルカの福音書には、取税人たちがヨハネの所にやって来たことが書かれています。
また、マタイの福音書には、ヨハネの働きの初期においては、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来たことが書き記されています。しかし、ヨハネは彼らを叱責したのです。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。」と。怒りに満ちた彼らは、悔い改めることなく、神様のみ心を拒否したのです。
「それでは、この時代の人々を何にたとえたらよいでしょうか。彼らは何に似ているでしょうか。広場に座り、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『笛を吹いてあげたのに、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに、泣かなかった。』
これは、当時の子どもたちが広場で遊んだ遊びを表わしていて、結婚式ごっこと葬式ごっこのことです。子どもたちが一緒に遊ぶ仲間を集っても、誰も集まらなかったというわけです。
「バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは『あれは悪霊につかれている』と言います。」
ヨハネは本当に禁欲的な生活をしていました。それを知っていた彼らは、自分たちはそこまでは出来ず、尊敬する気持ちがあったとしても、ねたみから、そのような解釈をあえてしたというわけです。
「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います」
主イエスは、弟子たちとの食卓だけではなく、多くの人々から食卓の席に呼ばれました。ユダヤの食卓には、ぶどう酒がつきものでした。なぜなら真水の方が貴重だったからです。 よって、主イエスは、弟子たちと共に食卓の席に招かれると、その家の主人の救いの為に、振る舞われた料理に、ぶどう酒に堪能されたと思われます。そのことについて、パリサイ人や律法学者たちは、ねたみから主イエスを侮辱したのです。
最後に主イエスは、「しかし、知恵が正しいことは、すべての知恵の子らが証明します。」と言われました。
「知恵」とは、ソロモンの箴言に、109回も登場する言葉です。つまり、主イエスご自身こそが、ソロモンが箴言に書き記した「知恵」と同じ存在であるということなのです。
箴言のテーマは、主を畏れること、神様を見いだすことなのです。そして「知恵の子ら」とは、「知恵」を見い出した者たちのことです。すなわち、救い主、主イエス・キリストを見いだし、出会った私たちこそが、「すべての知恵の子ら」なのです。》