◇◆◇日々のみ言葉
2016年10月9日(日)
◎聖書箇所 【ルカの福音書2章21節~23節】
2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
2:22 さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。
2:23 ――それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあるとおりであった。――
◎ショートメッセージ
《今日のみ言葉は、ルカの福音書2章23節ですが、その前の21節からつながっていますので、ここから考えて見ようと思います。
さて、まず主イエス様が「割礼」を受けられることについて考えて見ましょう。割礼とは、神様の御前に罪が赦され、義と認められたことのしるしです。
パウロは、
『私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた。」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。
彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。
すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。(ローマ人への手紙4:9後半~4:12)』と、言っているのです。
本来ならば、神の御子イエス様が、割礼を受ける必要は無いのです。なぜなら罪がないからです。しかし、御子イエス様は、私たちの身代わりとして割礼を受けて下さったのです。それだからこそ、私たちはアブラハムを父とも呼べるのです。
さて、マリヤのきよめの期間が過ぎたので、ヨセフはマリヤと幼子イエス様をエルサレムに連れて行きました。それは、律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならない。」と書いてあったからです。
出エジプト記によりますと、
『「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、私のために聖別せよ。それは私のものである。」(出エジプト記13:2)』と書かれています。
また
『「すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。(出エジプト記13:12)』とも書かれています。
ヨセフは律法に従って、幼子イエス様を、神様に捧げるため、またマリヤ出産のきよめの為の犠牲を捧げるために、エルサレムに上って来たのです。
そしてそこには、何と二人の老人が、その時を今か今かと、首を長くして待ち続けていたのです。》