◇◆◇日々のみ言葉
2016年10月10日(月)
◎聖書箇所 【ルカの福音書2章24節】
2:24 また、主の律法に「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽。」と定められたところに従って犠牲をささげるためであった。
◎ショートメッセージ
《このことは、マリヤのきよめに関することだったのです。
「主の律法」とは、レビ記のことです。
レビ記によりますと、
『「イスラエル人に告げて言え。女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。
彼女のきよめの期間が満ちたなら、それが息子の場合であっても、娘の場合であっても、その女は全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽、会見の天幕の入口にいる祭司のところに持って来なければならない。
祭司はこれを主の前にささげ、彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。
しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。」(レビ記12:2・12:6~12:8)』と、書かれてあるからです。
ヨセフとマリヤが、マリヤの出産のきよめのために犠牲を捧げ物として捧げていますが、それは一番貧しい人の捧げ物だったのです。そして親族は誰もおらず、三人だけだったのではないでしょうか。
それに比べて、半年前に生まれたバプテスマのヨハネは、裕福な祭司の家に生まれましたから、もっと贅沢な仕方でヨハネの誕生は祝われたことに違いありません。おそらくアビヤの組の祭司たちがお祝いにかけつけ、エリサベツのきよめの時にも、一才の子羊一頭が捧げられたに違いないのです。
さて、マリヤのきよめが終わりましたから、マリヤは人と触れ合うことが許されたはずで、この時、マリヤは従兄弟のエリサベツのいるエンカレムを訪れることは、十分考えられることではなかったのではないかと思うのです。
聖書には書かれていませんから、行ったのか、行かなかったのかは断定出来ませんが。
しかし、おそらくここで、ヨセフとマリヤと幼子イエス様は、ベツレヘムに戻ったはずなのです。でなければ、東方の三博士の訪問を受けることが出来ないからです。
余談ですが、「ヨセフとマリヤとイエス様」の家族を、カトリック教会では「聖家族」と呼びます。そしてヨセフとマリヤには、イエス様しか子供がいなかったと言うのです。なぜならマリヤは永遠の処女であり、ヨセフとは夫婦関係を持たなかったと言うのです。
しかし聖書ははっきりと、イエス様に弟たちと妹たちがいたことを書き記しています。そして彼らは、間違いなくヨセフとマリヤの子供たちであり、主イエス様とは血のつながった兄弟姉妹なのです。
しかしカトリック教会は、彼らは、ヨセフとマリヤの子供ではなく、養子あるいは親戚の子であり、あるいはヨセフが他の女性に産ませた子かも知れない?と言うのです。
私はカトリック教会を否定しませんし、主イエス様にあっては同じ兄弟姉妹であると信じる者です。しかし聖書に書かれてあることと違うことを教理としている点は、受け入れがたいことも事実です。
ただ、受け入れない所ばかりを強調するのではなく、受け入れるべき多くの同じ共通点の方に目を留めるべきです。自分たちの信じている教理は、ひとまず置いて、そして共通な所に目を向けるべきです。
カトリック教会には、二千年にわたる歴史があります。プロテスタント教会は、まだ五百年の歴史なのです。カトリック教会の四分の一しか、まだ歴史がないのです。》