◇◆◇日々のみ言葉
2016年11月20日(日)
◎聖書箇所 【ルカの福音書4章20節】
4:20イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
◎ショートメッセージ
《『それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
「私の上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、私に油を注がれたのだから。主は私を遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカの福音書4:16~4:19)
イエス様は、巻物の聖書のイザヤ書を巻くと、会堂管理人にそれを渡されました。そしてラビの座る特定の場所に着席されたのです。この時、安息日の礼拝に出ていたユダヤ人たちは、座っていたと思われます。
会堂にいたみなの目がイエス様に注がれました。
ところで、この会堂に来ていた人々は、一体何を期待していたのでしょうか。
一つは、
おそらくすでに、カペナウムにおいてイエス様がなされた奇蹟のうわさは、故郷であるナザレにも広まっていたに違いありません。よって彼らは、イエス様がなされる御わざに期待していたのだと思われます。
もう一つは、
いつものように、今までイエス様が、ナザレのユダヤ人の会堂シナゴークにおいて、なされて来た「勧め」の言葉に期待していたと思われます。
つまり、ナザレのユダヤ人の会堂には、大きく分けて、二つの人々が存在していたことになります。
イエス様が聖書に約束された「救い主」メシヤであることを信じ期待している人々と、「この人は大工ヨセフの子」であるとして、いつものように普通の期待しか抱かない人々とです。
私たちはどうでしょうか。
いつもイエス様に期待しているでしょうか。このお方により頼んでいるでしょうか。あるいは、普通の期待しか抱いていないでしょうか。つまり、「救い主」として、やがて再臨なされるお方としてだけです。
もちろん、そうです。イエス様は、やがて再び、この地球にご再臨なされます。
パウロはこのように証しています。
『では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ人への手紙8:31~8:32)』
父なる神様は、私たちに御子イエス様を下さいました。このお方は、まさしく主の主、王の王であられるお方です。そして今も生きておられます。存在されておられます。
このお方にもっともっとより頼んで行きましょう。もっともっと信じ信頼して行きましょう。もっともっと奇蹟を求めて行きましょう。祈り続けて行きましょう。神様は、私たちの味方なのです。》