◇◆◇2017年11月18日第三土曜礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書12章37節~43節】 (新約p.188上段真中)
12:37 イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤの言葉が成就するためであった。
12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そして私が彼らをいやす、ということがないためである。」
12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。
12:42 しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。
12:43 彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。
◎メッセージの概要 【神の栄誉か人の栄誉か】
《イエス様は、パリサイ人や律法学者たちの前で、多くの奇蹟を行なわれたのに、彼らはイエス様を、メシヤとしては信じませんでした。
これは、すでにこの時から700年前に、預言者イザヤによって預言されていたのです。
『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。』そして、新約聖書に最も多く引用された預言、『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。』の通りなのです。
これは、旧約聖書に預言されたから、彼らは信じなかったのではなく、彼らの心が頑なであったゆえに、彼らはイエス様を信じようとはしなかったのです。そのことが成就したと言うことです。父なる神様の御心は、「神の御わざを見よ。神の言葉を聞け。私が送った御子イエスを信じよ。」と言うことが、真意なのです。
ここで大切なことは、どんな人でも信じることができないのは、誰かがそうさせているのではなく、その人が信じたくないからであると言うことです。本人が信じたくないと言う、強い意志を持っている所に本当の理由があるのです。どんなに素晴らしい神の奇跡を目撃したとしても、その人が素直になろうとしないのなら、その人の心は頑なになり、やがて神様の哀れみは取り除かれてしまいます。私たちであっても、主の御前に、御言葉に素直であり、従順でなければならないことを教えています。
またヨハネは、「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」と注釈を加えています。これは、誰から聞いたのでしょうか。イエス様本人から聞いたのではないでしょうか。
この場面はイザヤの召命の場面に当たります。
『ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。』
これこそが、イザヤが主イエス様の栄光を目撃した聖なる時なのです。イザヤは、肉体を取られる前のイエス様を見たのです。それは頭で理解しただけではなく、体験したのです。
しかし、それにもかかわらずユダヤの指導者の中には、イエス様をメシヤとして信じる者がたくさんいたことをヨハネは書き記しています。しかし彼らは告白はしませんでした。なぜなら会堂から追放されない為です。会堂から追放されることは、ユダヤ社会から追放されることであり、日本で言えば「村八分」にされることです。
イエス様は、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と教えています。
また主の兄弟ヤコブは、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」とも教えています。
二心とは、世を愛し、それでいて主と共に歩もうとすることを表わしています。「二兎を追う者は一兎をも得ず」なのです。
人間は、誰でも人の目が気になるものです。特に日本人はそうですが、ユダヤの指導者たちも同じであったのです。仲間からどのように思われるのか、そればかり気にしていたのです。
神様を頭で知っている、頭で理解している信仰は弱いものです。私たちは、主イエス様の栄光を求めるべきです。イザヤがイエス様を見て体験したようにです。信仰とは、神様を体験することなのです。主は十二使徒たちに惜別の言葉を授けられました。
「また私は、あなたがたが私の名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう。」と。
信仰に中立の立場はありません。神様から愛され主の栄光を見る祝福された人生か、この世を愛し人々から注目され、賞賛を受ける人生を歩むのか、選ばなければならないのです。》