◇◆◇日々のみ言葉
2017年12月7日(木)
◎聖書箇所 【ルカの福音書16章3節~4節】
16:3 「管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
16:4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』」
◎ショートメッセージ
《昨日から16章に入っています。
イエスは、弟子たちにも、こういう話をされました。
「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。」
まずこの主人は、いきなり彼の管理の仕事を取り上げてはいない、と言うことに注目すべきです。普通ならば、彼を管理から外して、牢屋に入れたりするのが常識とも言えるのですが、彼が会計報告を出すまでは、猶予を与えているのです。
これこそが主人の愛であり、また神様の愛の深さを示しています。
さて、放蕩息子のたとえの中の弟息子も、そしてこの管理人も、自分の財産ではなく、他人の財産、すなわち父の財産、主人の財産を浪費していたことは同じです。
弟息子は悔い改めて、父親の所に戻って来ました。ところがこの管理人は、悔い改めるのではなく、悪知恵を働かしたのです。
「主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。」
ここから会計報告を出したのなら、家から放り出されることは必須であり、僕となって畑仕事をするか、あるいはこじきとなって物乞いをして生きて行くのか、先の事を考えなければならない状況になってしまったわけです。
しかし彼は管理人だったのです。彼は主人の財産の収支をただ管理するだけでなく、その事業においても任されていたのです。
どうやら、この主人は高利貸しであったようです。
そして彼は、ある作戦を実行します。
さて、このたとえ話をイエス様がされた時に、弟子たちは、そして側で聞いていたパリサイ人や律法学者たちは、ヨセフを思い出したはずなのです。
創世記によりますと、
『ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。
彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。
それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。
主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。(創世記39:1~39:5)』と書かれています。
ヨセフと言う管理人と、この管理人とはえらい違いがあるのです。しかもイエス様は、この「抜け目のない管理人」を誉め、そして弟子たちにこのようにしなさい、と言われるですから、弟子たちの頭は混乱することになります。》