• 2018年4月22日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年4月22日第四主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書14章7節~11節】 (新約p.191下段右側)
    14:7「あなたがたは、もし私を知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
    14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
    14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたと一緒にいるのに、あなたは私を知らなかったのですか。私を見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
    14:10 私が父におり、父が私におられることを、あなたは信じないのですか。私があなたがたに言う言葉は、私が自分から話しているのではありません。私のうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
    14:11 私が父におり、父が私におられると私が言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」

    ◎メッセージの概要 【すでに父を見たのですとは?】
    《イエス様は、これからゲッセネマの園へ行こうとしています。本当ならば、ヨハネ・マルコの家にて宿泊しても良いはずですのに、主はあえてそこから出て行こうとされています。 すでにイスカリオテのユダは、そこを出て、ユダヤの指導者たちと合流し、おそらくローマ軍の百人部隊が来るまで、サンヘドリンに待機していたのかも知れません。間もなく、彼は、イエス様を引き渡そうとして、群衆とこの家に来ようとしています。
     あとイエス様に残された時間は、多くても15時間、少なくとも12時間くらいではなかったでしょうか。なぜならイエス様は、その日の午前9時に十字架に掛けられるのです。そして6時間後の、午後3時には、死んで行かれます。人としての人生は、あと18時間~20時間ではなかったのではないでしょうか。
     この残された時間、しかも最後の晩餐からゲッセマネの園に向かわれる道程、ヨハネの福音書の14章から17章にかけて、弟子たちへの遺言とも言うべき、非常に大切な真理と奥義を彼らに教え残して行かれるのです。
     その内容を、いつも主イエス様の側にいたヨハネが、イエス様の昇天から、60年~70年後に、第四福音書に書き記するのです。
     一世紀の終わりから二世紀が始まる頃に、ヨハネは福音書を執筆したわけですが、もうすでに長老として、ゆうに80歳を越えていたでしょう。ヨハネは、かなり昔のことを、良くこんなに思い出すことが出来たのかが、不思議でなりません。イエス様に召し出された時は、13・14歳ぐらいでした。
     さて、イエス様は、創造主なる神様を、「父」と呼んでいますが、それは「山上の垂訓」の時から、弟子たちにすでに教えていますから、「父」が誰を指すのか、弟子たちは知っていました。でなければ、彼らは、マリヤの夫であり、ヤコブ・ヨセ・ユダ・シモンと妹たちの父親であったヨセフを思い浮かべたことでしょう。
     ピリポは質問します。
    「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
     するとイエス様は、
    「ピリポ。こんなに長い間あなたがたと一緒にいるのに、あなたは私を知らなかったのですか。私を見た者は、父を見たのです。」
     と答えられました。
     イエス様は、かつてパリサイ人や律法学者たちにも、このように言われたのです。
    「私を信じる者は、私ではなく、私を遣わした方を信じるのです。また、私を見る者は、私を遣わした方を見るのです。」
     そして弟子たちにはっきりと、「私は父から出て、世に来ました。もう一度、私は、世を去って父のみもとに行きます。」と宣告されました。
     これは、ご自身こそが、神様であることを、再度言われているのです。
     また「私があなたがたに言う言葉は、私が自分から話しているのではありません。」と言われました。このことを弟子たちが耳にするのは、二回目です。この時以前に、すでにパリサイ人や律法学者たちにも、この真理を教えています。
    「私は、自分から話したのではありません。私を遣わした父ご自身が、私が何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。私は、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、私が話していることは、父が私に言われたとおりを、そのままに話しているのです。」と。
     イエス様が言われた言葉は、真に神の言葉なのです。
     そして、「私が父におり、父が私におられると私が言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」と言われましたが、
     弟子たちはイエス様がメシヤであることを、すでに信じていました。しかし、自分たちが幼い頃から教えられて来た、創造主なるヤーヴェの神様とイエス様が同じ方であることは、なかなか受け入れられなかったのです。
    「父と私は一つです。」と言われたように、三位一体の神様は、それぞれが違う人格を持ち、それでいて一人の神様であるのです。つまり、意思は同じと言うことです。
     この奥義は、説明もまた理解も難しいことですが、私たちはそれをそのまま受け入れるしかありません。いくら考えても、その深い奥義は知ることは出来ないのです。
     ヤーヴェなる創造主なる神様は、二千年ほど前に、イエス・キリストを通して、真の神様とはどのようなお方であるかを示されたのです。
     私たちは、この時の弟子たちのように、生きておられるイエス様と直接お会いし、触れることは出来ませんが、福音書を通して、どのようなわざをされたのかは知ることが出来ます。 イエス様の命令は、ただ一つです。
     それは、「信じなさい」「私を信じなさい」と言うことだけなのです。信じましょう。》

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