• 2018年4月29日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年4月29日第五主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書14章12節~14節】 (新約p.191下段左側)
    14:12 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。私を信じる者は、私の行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。私が父のもとに行くからです。
    14:13 また私は、あなたがたが私の名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
    14:14 あなたがたが、私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをしましょう。」

    ◎メッセージの概要 【主イエス様の約束】
    《先週のメッセージにも話しましたが、この言葉は、イエス様がエルサレム市内からオリーブ山にあるゲッセマエの園に、弟子たちを連れて行く時に語られました。
     三つの共観福音書は、この道すがらに語られた尊い教えには、ほとんど触れてはいません。 それゆえ使徒ヨハネが、後に「第四福音書」と呼ばれる福音書を執筆しなければならなかったく理由が分かるとも言えます。
     さて、ここでイエス様は、弟子たちに四つの約束をされました。今回はその中の三つの約束について学び、次回には四つ目の約束について詳しく学ぶことにしたいと思います。

     さて、一つ目の約束は、
    「私を信じる者は、私の行なうわざを行なう」と言う約束です。
     これは、イエス様がなされた奇蹟を表わしています。イエス様が「父のもとに行く」と言われたように、いなくなったとしても、弟子たちはイエス様のわざをすることが出来ると言うことです。
     使徒の働きには、
    『ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。』と書かれています。
     また使徒パウロは、『私の言葉と私の宣教とは、説得力のある知恵の言葉によって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。』と、手紙に書き記しているように、イエス様を信じる者は誰であっても、いやしや悪霊追い出しが出来ることを、証しているのです。

     二つ目の約束は、
    「またそれよりもさらに大きなわざを行なう」と言うことです。
     イエス様のなされた御わざよりも大きなわざとは何なのでしょうか。
     ある学者は、それは「救われた証し」であると言います。罪赦され救われた証しは、罪人しか出来ないからです。イエス様は、何の罪をも犯されなかったのですから、「救われた証し」は出来ないと言うのです。もちろんそれもあるかも知れません。
     しかし、この約束は、まずご自身が残して行かなければならない愛する弟子たちへの約束なのです。弟子たちに成就しなければ、可笑しなことになってしまいます。
     この約束もペテロを通して成就します。それは、人々を救いに導くことです。
    『そこでペテロは彼らに答えた。
    「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」
     ペテロは、このほかにも多くの言葉をもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。
     そこで、彼の言葉を受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。』
     使徒の働きに書かれた三千人とは、男性の数だけですので、さらにその家族を合わせますと、一万人以上の者が、一日に救われ永遠の命を手にしたことになります。真の神様である主イエス様の御もとに、人々を導くことこそが、「大きなわざ」ではないのでしょうか。

     そして三つ目の約束は、
    「私の名によって何かを私に求めるなら、私はそれをする」と言う約束です。
     しかも二回繰り返されていて、二回目は「何でも」と言われています。
     ユダヤでは、名前はその人の人格を、あるいはその人自身を表わすと言われています。イエス様の名前は誰がつけましたか。ヨセフですか。マリヤですか。それとも御使いガブリエルですか。いいえ。父なる神様です。実は、すでに御国において、イエス様はその名で呼ばれていた可能性は非常に大きいのです。
     なぜならパラダイスにいるアブラハムやダビデは、イエス様が生まれる前から知っており、喜んでいることが書かれているからです。
     アラム語では「イエシュア」、主は救いと言う意味です。また「その名はインマヌエルとも呼ばれる」のです。「神は共におられる」と言う意味です。
     さて、イエス様の名によるのですから、イエス様の御心と一致している必要があります。その名の持つ意味に相応しい願いごと、あるいは祈りに、イエス様は答えてくださることを約束しています。
     この約束もペテロを通して成就します。
    『翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。
     彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。
    「民の指導者たち、ならびに長老の方々。私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
     『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
     ペテロが、足なえの人をいやしたことに対する弁明です。私たち、主イエス様を信じる者に、この名が与えられていることは、何と言う恵みであり、特権なのでしょうか。その御名によって、これらの三つの約束が与えられているのです。
     最後に。私たちは、本当にその御名を信じ、信頼しているのでしょうか。これは遠い過去の話ではありません。なぜならイエス様は、今も生きておられるからです。
     私たちの神様は死んだ者の神様ではありません。生きている者の神様なのです。このお方だけが、本物の神様です。
     このお方だけが、あなたの願いごとを、その御名によって叶えて下さいます。導いて下さるのです。今こそこのお方に、すべてを委ねるべきではないでしょうか。》

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