◇◆◇日々のみ言葉
2018年4月30日(月)
◎聖書箇所【ルカの福音書22章7節】
22:7 さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。
◎ショートメッセージ
《実は三つの共観福音書と、第四福音書と言われるヨハネの福音書では、この「過越の小羊のほふられる、種なしパンの日」の日にちが異なるのです。
多くの学者は、ルカの福音書が、一番時制に忠実であり、起こった出来事を順番に、書き記していると主張します。
実際にギリシャ人ルカは、綿密に調べ上げ、整理し、友人のテオピロに書き送ったと思われます。
よって、三つの共観福音書は、過越の祭の第一日に、イエス様が十字架にかけられたことを主張しますが、ヨハネはそうではなく、「備え日」すなわち過越の祭の一日前であったと、書き記しているのです。
『さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。(ヨハネの福音書18:28)』
『その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」(ヨハネの福音書19:14)』
そうだとするならば、イエス様は、一日早く、過越の食事(最後の晩餐)をしたことになります。しかもそれを独自にされたことになるのです。
実際には、過越の祭の第一日が大いなる日(安息日)であったことから、ヨハネの福音書の時制を正しいとする学者もいます。
しかし、最も重要なことは、最後の晩餐の背後には、過越の祭りがあったことです。
イエス様は、最後のいけにえとして、神の小羊として十字架にかかられます。毎年過越の祭には、小羊が屠られるのですが、大切なことは、その血が注がれることなのです。
なぜなら「命はその血にあるからです。」
そして血だけが、罪を洗い流すことが出来るからです。
ヘブル人への手紙の著者は、こう述べています。
『しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブル人への手紙9:11~9:14)』と書かれた通りです。
「さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。」
この日、バプテスマのヨハネが証した、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス様は、私たちのすべての罪を背負われ、十字架にかかられるのです。》