◇◆◇2019年9月1日第一主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書19章6節~11節】 (新約p.201上段左側)
19:6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
19:8 ピラトは、この言葉を聞くと、ますます恐れた。
19:9 そして、また官邸にはいって、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。
19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたには私に対して何の権威もありません。ですから、私をあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
◎メッセージの概要【権威とは?】
《主イエス様が、ポンテオ・ピラトの所に連れて来られたのは、午前6時頃と言われています。その後、すぐにガリラヤ国主ヘロデ・アンティパスの所に送られ、紫色の衣を着せられ、またピラトの下に戻されたのは、午前7時頃になるかと思われます。その後、むち打たれ、そして今、群衆の前に立たされています。
「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
祭司長たちや役人たちはイエス様を見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。」と、言うように群衆を扇動します。
「あなたがたが十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
「この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
ここではまず、ユダヤ人指導者たちの言い分、主張について考えて見たいと思います。
『自分を神の子とした』とは、つい数時間前に行なわれた大祭司カヤパの尋問のことです。
「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」
「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
「神への冒涜だ。あなたがたは、今、神をけがす言葉を聞いたのです。どう考えますか。」
「彼は死刑に当たる。」
その後、カヤパは議会を招集します。議会においても、イエス様は再度、ご自身こそ「神の御子」であることを宣言されるのです。
彼らは、「自分を神の子とした」と主張しますが、「した」のではなく、まことに「神の御子」であられるのです。
それを聞いたピラトは、恐れを抱き、イエス様を連れて、一度群衆からは見えない所に連れ出し、そして質問します。
「あなたはどこの人ですか。」
この質問には、主イエス様はお答えになられません。その答えは、実は多くの人々によってすでに答えられているからです。
マタイによれば、
『そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。』と預言されており、また主イエス様が「しゅろの日曜日」に、雌ロバのロバの子に乗ってエルサレムに入場される時に、人々は「ホザナ」と、熱狂して迎え、「このお方はナザレのイエスだ。」と叫んでいたのです。
また、ピラトは、イエス様の十字架の上につける罪状書きを書きましたが、その内容こそが、彼が質問したことの答えでもあったのです。
『ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。』
「ナザレのイエス」これが「救い主」の名前なのです。
「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
この質問に対して、主イエス様は思いもよらない答えをピラトに返します。
「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたには私に対して何の権威もありません。」と。
ここでイエス様は、明言されたのです。すべての権威は、父なる神様が与えられたものであることを。いや、この世界はイエス様によって、イエス様の為に創造されたのですから、ピラトにローマ総督としての権威を与え、また総督に選ばれたのは、カイザルを用いて、主ご自身であることになります。
シモン・ペテロはこのように勧めています。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」
また使徒パウロもこのように勧めています。
「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」
もし、このことが真実であるとしたら、今の世界において存在する権威は、すべてが主イエス様が立てられたことになります。
そして多く与えられた者は、多く求められるように、その権威をどのように用いたのかが、問われることになるのです。
上に立つ者の責任は重く、最後の審判において、そのすべてが明らかにされ、教師が人一倍裁きを受けるように、権威を与えられた者の裁きは、非常に重いものとなるのです。また少しでも上の立場に立たされ、権威を授かった者は、その権威を神様と共に用いるべきです。そして主が喜ばれるように、良いことへの道に根ざした使い方をする必要があるのです。》