• 2020年1月5日新年第一主日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2020年1月5日 2020年新年礼拝
    ◎本日の聖書箇所【第Ⅰテサロニケ5章16節~18節】 (新約p.367下段真中)
    5:16 いつも喜んでいなさい。
    5:17 絶えず祈りなさい。
    5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

    ◎メッセージの概要【2020年標題聖句そのⅠ(16節)】
    《明けましておめでとうございます。
     さて今年の標題聖句は、第Ⅰテサロニケ5章16節から18節となります。今日から3回にわたって、標題聖句を学んで行きます。今日は、5章16節「いつも喜んでいなさい」について、共に考えて見ましょう。
     まず「喜びの手紙」と言われています「ピリピ人への手紙」から考えて見ましょう。この手紙には「喜ぶ」と言う文字が16回出て来ます。しかもこの手紙は、ローマの獄中において書かれたものなのです。その手紙の中で、パウロ自身このように勧めています。
    『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』
     このみ言葉の方が、パウロが伝えたい真意がはっきりとします。ただ単に「いつも喜んでいなさい」では、私たちは喜び続けることなど、到底不可能だからです。なぜなら私たちは感情を持っているからです。
     たとえ、頑張って、顔が笑っていても心の中に真の喜びがなければ、結局は長続きはしませんし、見透かされてしまいます。
     それだからこそ、パウロが条件着けている一言、「主にあって」が最も重要なのです。主イエス・キリストにある「喜び」こそが本物です。この「喜び」こそが、感情や周りの状況に左右されない「喜び」なのです。
     使徒パウロは、ローマの獄中にいましたが、本当に主イエス様にあって喜んでいたのです。彼の喜びは本物です。真実です。だからこそ、心から勧めることが出来るのです。
    『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』と。
     それでは、「主にある喜び」とは具体的にはどのようなものなのでしょうか。
     イエス様は、最後の晩餐の後に、弟子たちにこう預言されました。
    「私はもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」と。
     主イエス様こそ、真の救い主、メシヤ、神の一人子であられ創造主なる真の神様、そのことを、弟子たちが、本当に知った時に、彼らに「喜び」がやって来たのです。
     それは、十字架につけられ殺されはしましたが、三日目によみがえられ、生きておられる主イエス様にお会いした時です。主が共にいて下さる喜び、その喜びこそだけが本物の喜びであるのです。
     そしてそれは御霊の実として、聖霊によって与えられるものでもあるのです。それは、上から降り注がれるものなのです。
     パウロは、『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』と、明言しています。
     この「喜び」を持つのです。いやすでに与えられています。「永遠のいのち」と共に。すでに私たちは、この「喜び」を持っているのです。
     私たちの真の敵である悪魔は、私たちのこの「喜び」を、何としても奪おうとして、攻撃して来ます。
     それでは、「喜び」の反意語は何でしょうか。「悲しみ」確かにそうかも知れません。しかし、主にある喜びを持っている者の喜びを奪うのは悲しみではありません。
     悪魔は、もっと巧妙に攻撃を仕掛けて来るのです。良いですか。私たちは、主の十字架によって流された血潮によって買い戻された者なのです。私たちは、もはや悪魔の支配下にはおりません。主のものです。よって主イエス様の許可がなければ、悪魔は私たちに指一本触れることは出来ないのです。
     喜びを奪うものは「裁く」ことなのです。イエス様は、「山上の垂訓」において、こう教えられました。
    「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」と。
     主イエス様だけが唯一の裁き主であられます。このお方が裁かれるのです。そして文字通り「すべての人」を裁かれるのです。
     誰も奪うことの出来ない「主にある喜び、」その喜びを持ち続ける秘訣が、5章17節「絶えず祈」ることなのです。》

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