◇◆◇日々のみ言葉
2020年5月20日(水)
◎聖書箇所【使徒の働き26章29節】
26:29 パウロはこう答えた。
「言葉が少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、今日、私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになって下さることです。」
◎ショートメッセージ
《「アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」
「あなたは、わずかな言葉で、私をキリスト者にしようとしている。」
アグリッパは、かつてベツレヘムの二歳以下の男の子を殺戮したヘロデ大王のひ孫であり、アグリッパ一世の息子でしたが、実際にはユダヤ人ではなく、エドム人でした。 彼が、パウロが言います「預言者」、すなわち旧約聖書を信じているのかどうかは、分かりかねますが、少なくともある程度は、モーセ五書などの律法の知識は持っていたかと思われます。
また、ユダヤ人が未だに「メシヤ」なる「キリスト」、すなわち神がモーセを通して約束された「あの預言者」を待ち望んでいることも十分、察していたに違いありません。
パウロは、その人物こそ、その時点から30数年前にエルサレムにおいて十字架にかけられた「ナザレ人イエス」であると言うのです。そして、そのイエスはよみがえったと主張するのです。
弁明の結論として、
「言葉が少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、今日、私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになって下さることです。」と締めくくったわけです。
ローマ総督フェストの講堂には、アグリッパと妹ベルニケの他にも、聴衆がいたと思われます。その人々に、パウロは自分の証しを通して、救われることを願っています。
「この鎖は別として」
「この鎖」とは何でしょうか。それはカイザリヤにおける二年間もの牢獄生活のことです。
しかし実際には、主イエス・キリストの救いも「鎖」ではないでしょうか。ただしそれは「囚われ」の鎖ではなく、「栄光」へつながる、いいえもっと言うならば「永遠の命」につなげられている、決して切れることのない「神の御手」による「鎖」ではないでしょうか。
主イエスの御名を信じる者の手は、そのようにして、何時も、如何なる時であっても、神の御手が「鎖」のように、しっかりと握られているのです。
「私は、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と主イエス様が言われたとおりに。》