◇◆◇日々のみ言葉
2020年9月15日(火)
◎聖書箇所【マタイの福音書5章25節~26節】
5:25「あなたを告訴する者とは、あなたが彼と一緒に途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
5:26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。」
◎ショートメッセージ
《「山上の垂訓」における、主イエスの弟子たちへの教えが続きます。今日の箇所も難しい教えと言えそうです。
主は言われます。
「あなたを告訴する者」と。
告訴することとは、広辞苑は、
①告げ訴えること。
②犯罪の被害者、その法廷代理人などが、捜査機関に対して、口頭または書面で、犯罪事実を申告して犯人の処罰を求めること。
と定義しています。
しかし、これだけではありません。全く身に覚えの無いことで告訴されることもあり得るのです。
もし、明らかに、こちら側の不備で、告訴されるようなことがあったとしたら、間違いなく、今回の主イエスの教えが生かされるかと思われます。
しかし、全く見に覚えの無いことで告訴されたとしたら、私たちはどうしたら良いのでしょうか。その時にでも、仲直りしなければならないのでしょうか。
もし、明らかにこちら側の過失による場合には、相手に対し誠実誠意を尽くすべきことは、言うまでもありません。
アメリカの話です。
自動車事故の時、自動車保険の担当係員や警察が来るまでは、お互いにいっさい口を開かず、謝罪もしないそうです。もしうっかり口を滑らせたとしたら、そちら側が過失を認めたことになるからです。
しかし、このような態度に対し、自分の娘さんを亡くした親が立ち上がったのです。そしてある州において、法律が執行されました。それは、事後当時の発言が、過失割合には影響されることはない、と言う決定事項です。
10代の娘さんを亡くした親は、「飲酒運転」と言う明らかに相手側の過失であって、心から謝罪してほしい、悔い改めてほしかったからこそ、立ち上がったのです。
謝罪することは難しいのです。しかし、本当にこちら側にミスや過失があるのならば、速やかに私たちクリスチャンは謝罪しようではありませんか。
日本の政治家や官僚たちのように、「記憶にございません」と言う答弁を繰り返すようなことがあってはならないのです。
たとえ、そうであったとしても、裁き主である主イエス様はすべてご存知です。すべての人は、誰一人例外なく、人生最後において「白い御座の裁き」の場に立つのです。 そしてその時、「記憶にございません」は、まったく通用しないのです。すべてが明らかにされるからです。
その時、主イエスを信じる機会を何度も逃して来た政治家や官僚たちは、何を知るのでしょうか。》