◎本日の聖書箇所【使徒の働き6章8節~15節】
6:8 さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。
6:9 ところが、リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々、クレネ人、アレクサンドリア人、またキリキアやアジアから来た人々が立ち上がって、ステパノと議論した。
6:10 しかし、彼が語るときの知恵と御霊に対抗することはできなかった。
6:11 そこで、彼らはある人たちをそそのかして、「私たちは、彼がモーセと神を冒涜する言葉を語るのを聞いた」と言わせた。
6:12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、ステパノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。
6:13 そして偽りの証人たちを立てて言わせた。「この人は、この聖なる所と律法に逆らう言葉を語るのをやめません。
6:14 『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
6:15 最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。
◎メッセージ【捕らえられたステパノ】
《ルカは、ここからステパノの働きについて紹介しています。さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行なっていました。つまり、真の神様が共におられる証しとしての不思議やしるしを、十二使徒だけではなく、七人の執事たちも行なうことが出来たのです。
ところが、リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々と、クレネ人、アレクサンドリア人が立ち上がって、ステパノと議論したと言うのです。「リベルテン」とは、ラテン語リベルティノスからきた言葉で、「自由を得た者」という意味です。
紀元前63年ローマのポンペイウス将軍がユダヤを征服した時に捕えられ、ローマに連行されて奴隷として売られたユダヤの人々がいました。しかしその後、彼らのうちのある者は解放されて自国に戻り、エルサレムに自分たちの会堂を造ったのです。彼らは、ギリシャ語を使用していましたから、同じくギリシャ語を話すクレネやアレキサンドリヤから来たユダヤ人たちも集まっていたのです。この人たちは、外国生まれで外国育ちであるにも関わらず、エルサレムに在住します生粋のユダヤ人よりも、律法や神殿礼拝を守ることについて、異常なほどに熱心であったのです。それゆえ、ステパノが宣べ伝えている主イエスの教えに対して真っ向から反対の意を表わしたと言うわけです。しかし聖霊に満たされているステパノは、主イエス様からの知恵によって、彼らを論破しました。
当然彼らは怒り狂いました。そして彼らは、ある人たちをそそのかして、「私たちは、彼がモーセと神を冒涜する言葉を語るのを聞いた」と言わせたのです。また主イエスの時と同じように、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、ステパノを捕らえさせたのです。
そして、主イエスの時と同じように、偽りの証人を立てました。モーセの律法においては、偽りの証人を立てることがどれほど罪深いか書かれています。彼らは律法を厳守すると言いながら、目的を成就する為なら、いとも簡単に律法を破るのです。それだからこそ、主イエス様は彼らのことを、「偽善者」と言ったのです。
さて彼らの訴えは、ある意味においては正しい部分もあるのですが、彼らの巧妙さは、正しい真実を、違うように表現して、その意味を曲解させることにありました。
「この人は、この聖なる所と律法に逆らう言葉を語るのをやめません。『あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」と。
おそらくステパノが語り告げた事は、主イエス様の十字架の死と三日目の復活のことです。よって「聖なる所」とは、まさに主イエス様の御からだのことを意味しています。また主イエス様は律法を廃棄させるのではなく成就させる為に来られました。主によって、律法はついに完了し、新しい戒めと変えられたのです。それは、「互いに愛し合う」ことなのです。
かつて主イエス様がたった一人で立たされた最高法院に、今度はステパノがただ一人立たされます。この時、ステパノは聖霊に満たされ、その顔はまさに御使いのようであったとルカは書き記しています。それを目撃したのはサウロです。サウロはこの場に同席したのです。
出エジプト記には、モーセが十戒を授かり、シナイ山から下りて来た時に、その顔が光り輝いていたことが書き記されています。それこそが、神様がモーセと共におられたしるしであり、またステパノの時には、神様が共におられるしるしなのです。
訴訟内容が語られると、すべての目がステパノに注がれます。ここから、いよいよステパノによる最初で最後の偉大な伝道メッセージが語られる事になります。主イエスが約束された通りです。
『「人々はあなたがたを地方法院に引き渡します。あなたがたは、彼らに証しするのです。そのとき、何を話そうかと、前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」』と。
この言葉は、十二使徒、そしてステパノやパウロにだけ、語られた言葉ではありません。すべてのクリスチャンに向けて、主は思いと願いとそして預言を持って語っておられます。 そしてその場には、主イエス様も共にいて下さると言う約束なのです。私たちは決して独りぼっちではありません。たとえ、独りに見えたとしても、主イエス様は側にいて下さるのです。「私は、あなたがたを決して孤児にはしない」と。》