◎本日の聖書箇所【ルカの福音書2章21節~35節】
2:21 八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子の名はイエスとつけられた。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。
2:22 そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。
2:23 それは、主の律法に「最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる」と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。
2:24 また、主の律法に「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。
2:26 そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。
2:27 シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、お言葉どおり、しもべを安らかに去らせて下さいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 あなたが万民の前に備えられた救いを。
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」
2:33 父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。
2:34 シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。
2:35 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」
◎メッセージ【エルサレムのシメオン】
《主イエスは、紀元前6年頃、ミカが預言したとおり、ベツレヘムにおいて生まれました。母マリアの清めの期間七日間が過ぎると、神殿において幼子イエスに割礼を施す為に、両親はエルサレムに向かいます。
そしてヨセフとマリアが幼子イエスを連れて宮に入った時、一人の老人が側にやって来ました。その名前はシメオン。
シメオンは、正しい、敬虔な人であったと書かれています。「正しい」とは、主の律法を重んじる者と言う意味です。「敬虔な人」とは、神を怖れへりくだった者、また神様の恵みの中に生かされている事を知っている者のことです。
しかもイスラエルが慰められるのを待ち望んでおり、何と聖霊が彼の上におられたと言うのです。ところで、シメオンの人生はどうであったのでしょうか。ここまで順風満帆な幸せな人生を歩んで来たのでしょうか。まったく健康で何一つ病気をしたことが無い者に、「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない。」と、神様は言われるでしょうか。もしそうだとしたら、人は傲慢になり、「敬虔な人」とは、ほど遠くなってしまいます。
シメオンは、試練や病気や様々な労苦の中に生かされて来たと思うのです。しかし彼は「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはない。」と言う、神様の約束を信じて、ここまで歩んで来たのです。
詩篇119篇「み言葉の賛歌」はこう謳っています。『あなたのみ言葉は私の足のともしび私の道の光です。私は誓いまたそれを果たします。あなたの義の定めを守ることを。私はひどく苦しんでいます。主よみ言葉のとおりに私を生かして下さい。』この告白こそ、シメオン自身の告白ではないでしょうか。
さて、シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、まさにその時ヨセフとマリアが幼子イエスを連れて入って来ました。シメオンは幼子を腕に抱き神を誉め讃えて言います。
「主よ。今こそあなたは、お言葉どおり、しもべを安らかに去らせて下さいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。」そして、イエスと母マリアについて預言するのです。
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。」
証しをする為に、この預言の言葉を語る為に、シメオンはここまで生かされたのです。この後、シメオンがどうなったのかは聖書には書かれてはいません。しかし私は思うのです。この日のうちに、彼は安らかに召されたことを。
2020年が、間もなく終わろうとしています。この一年間は、まさに、世界と日本が真っ暗闇と絶望の中に投げ込まれた一年ではないでしょうか。
しかし、主は約束しておられます。
『「だれでも私を愛する人は、私のこ言葉を守ります。そうすれば、私の父はその人を愛し、私たちはその人の所に来て、その人と共に住みます。私はあなたがたに平安を残します。私の平安を与えます。私は、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。』と。
私たちの人生に、聖霊はシメオンと共におられたように、共にいて下さるのです。もし私たちが、主にある平安の中ではなく、恐れの中にいたとしたら、それこそ「神はいない」と証しているようなものです。
主は共にいて下さいます。嵐は静まります。夜が明けて朝は必ずやって来ます。十字架の三日後には復活があったのです。》