◇◆◇日々のみ言葉
2021年8月21日(土)
◎聖書箇所【マタイの福音書18章11節~13節】
18:11 〔「人の子は、滅んでいる者を救うために来たのです。」〕
18:12「あなたがたはどう思いますか。もし、誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」
◎ショートメッセージ
《このたとえは、有名な「九十九匹の羊」のたとえです。同一並行記事は、ルカの福音書に記載されています。
ルカによれば、
『さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にする。」そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、一緒に喜んで下さい。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカの福音書15:1~15:7)』と。
マタイの福音書においては、シモン・ペテロの家において、十二弟子たちに、このたとえを用いて教えています。
しかし、ルカの福音書では、場面が異なっており、パリサイ人や律法学者たちに向けて主イエスは語られています。
よって、主イエスは少なくとも二回以上は、この「九十九匹の羊」のたとえを用いられて話されたことが分かります。しかも、対象の相手が違っていることから、実は教えの内容が、若干違っているのです。
まずマタイの福音書の方から見て見ましょう。教える相手は十二弟子たちです。「百匹の羊」を持っているのは主イエスご自身です。その中の一匹が迷い出たと言うわけです。
当時の羊飼いは、夕方になりますと、頑丈な囲いの中に羊を入れます。羊は羊飼いの声を聞いて、門のある囲いの中に入って行きます。しかし、一匹は迷い出てしまったのです。つまり、その羊は羊飼いの声を聞きそびれてしまったのです。あるいは別の声を聞いた為に、自分の主である羊飼いの声が分からなかったのかも知れません。
夜になりました。狼や凶暴な獅子などがさまよい歩いています。羊飼いである主は、捜しに出かけます。そして見事に見つけ出し、かついで家に戻るのです。九十九匹の羊は安心です。なぜなら囲いの中に、すなわち教会の中にいるからです。守られているのです。しかし、迷い出た羊は違います。猛獣の餌食になってしまう可能性が高いのです。 毎年、教会から迷い出る者も多くいます。しかし、主はそのような者たちを見つけ出し、かついで、再び教会に連れ戻されようとなさるのです。》