◇◆◇日々のみ言葉
2016年10月29日(土)
◎聖書箇所 【ルカの福音書3章9節】
3:9 「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
◎ショートメッセージ
《『それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(ルカの福音書3:7~3:8)』
今日は、まず「バプテスマ」について考えて見たいと思います。
実は、当時のユダヤ人に取って、バプテスマは一般的に良く知られているものだったのです。
当時のバプテスマはと言うのは二つあって、その一つは、異邦人がユダヤ教に改宗する時に行なわれるパリサイ派の改宗者のバプテスマで、もう一つは、エッセネ派が毎日行なっていた清めのバプテスマでした。
しかしヨハネが説いたバプテスマは、それらのものとは根本的な違いがあったのです。
ヨハネのもとに集まって来ていた人々のほとんどは、ユダヤ人なのですから、改宗のためのバプテスマは必要がありませんし、エッセネ派の清めのバプテスマのように毎日行なうものでもありません。彼らは、手を洗えば清められると信じていたからです。
最もそれもある程度は真実であり、外出して様々な人と触れ合い、また多くの物を手にして、家に帰ってから、手を洗う習慣は、まさしく良い習慣であることは間違いありません。
しかし、それは単なる衛生上のことであって、ユダヤ人は、霊的に汚れると考えていたことこそが、大きな問題であったのです。
ヨハネは、「悔い改めのバプテスマ」を説きました。
自分を高く思っている者、まさに高慢の何者でもないユダヤ人に対して、「悔い改めの実を結べ、そしてそのしるしとしてのバプテスマを受けよ」と言うのです。
また、
「斧もすでに木の根元に置かれている。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれる」とも言うのです。
それでは、悔い改めると言うことは、どのようなことでしょうか。それは、「すべては恵みであり、神様の一方的な哀れみによって与えられている」と言うことをもう一度、思い起こし、そして神様に感謝を捧げると言うことなのです。
実際に、ユダヤ人の歴史は、まさしく背教の歴史であり、すぐに創造主なる神様から離れ、また悔い改めて神様に戻り、しばらくするとバアルや他の神々に仕え、また戻るという繰り返しであったからです。要するに異邦人と何のかわりもないと言うことなのです。
ヨハネは、選民ユダヤ人と、異邦人との間が、やがて同じように平らにされることを預言しています。
救いは主イエス様によって成し遂げられ、その救いは、主イエス様を拒否したユダヤ人から離れ、異邦人へと伝えられて、バトンが渡されて行くことを預言しているのです。
「悔い改めよ」
そして悔い改めた者だけが、まことの救い主が誰であられるのかを、知ることが出来るようになるのです。それだからこそ、「先備え」なのです。》